01Short Story

【特典SS】ドクトルさんの実験
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【特典SS】ドクトルさんの実験

「痛ッ」
 キッチンでジャガイモの皮を剥いていたドクトルが小さく悲鳴を上げた。
 隣で野菜を洗っている健人は、何事かと眉を寄せる。
「大丈夫?」
「ふぁい、ふぁいひょうふふぇふ」
 どうやら包丁で指を切ってしまったようだ。指を咥えたドクトルが目に涙を浮かべていた。
 その様子が二つの意味でおかしく、健人はついつい吹き出してしまう。
「どんな怪我も治せるドクトルさんでも、反射的に傷口を舐めるのは同じなんだね」
「無限の『宝氣』を手に入れる前は、まず唾液で止血していましたから。その頃の癖が残っているのでしょう」
 そう言いながら口から離した指先の傷は、きれいさっぱり消えていた。
 野菜を洗う手を止めて、健人は自分の指をじっと見つめる。
「そういえばフィードバックしなかったな」
「ふぃーどばっく?」
「ほら。悪魔と取り引きして、ドクトルさんの怪我を全部俺が引き受けるようにしてもらったじゃん。それがなかったなと思って」
「日常生活に支障が出るほどの怪我ではありませんでしたからね。その程度だと、わざわざケントさんが身代わりになる必要はないと判断されたのでしょう」
「ふむ」
 明確な契約書があるわけではないので、その線引きは曖昧だ。ただ今みたいに小さな怪我がフィードバックしないのは、正直言って助かった。自分の与り知らない傷のせいで、日常的にビックリしたくはない。
「にしても、どの程度の傷だとこっちに移るんだろ」
「試してみますか」
 ドクトルが悪戯っ子のような悪い笑みを見せる。何か嫌な予感がした健人は顔を引き攣らせるも、今後のために知っておいた方がいいのも事実だ。
 昼食を終えた後、二人は再びテーブルに向かい合って座った。
 手の甲を上にして、両手をテーブルに置いている健人。対するドクトルは左手こそ彼と同じ形になっているものの、その右手には小さなナイフが握られていた。
「では、いきますよ」
「……お手柔らかにお願いします」
 頷いたドクトルは自分の左手の甲にナイフを刺した。刃先の深さは、ほんの二ミリ程度。ゆっくりとナイフを手前に引くと、赤い線から血液がにじみ出てくる。
「いたたたたたたた」
「えっ、なんでケントさんが痛がってるんですか? まだ移ってないじゃないですか」
 ナイフによる裂傷は未だドクトルの左手にある。にもかかわらず、健人は彼女の傷口から目を逸らして悶絶していた。
「だって……こんなに白くて綺麗なお手手が、ナイフで引き裂かれて……」
「バカなこと言ってないで、ちゃんと見ていてください。今は私だけが痛いんですから」
 普通に怒られた健人は、しゅんと肩を落とした。
 やがてナイフは左手の手首辺りまで到達する。針を縫うほど深い切り傷ではないものの、傷口からはちょっと心配になってしまうくらい出血していた。
「この程度なら問題ないってことなんでしょうね」
「……そうだな」
 見ているこっちが痛いという言葉を飲み込んで、健人は目を細めた。
「けど、ここからが本番です。ケントさん、覚悟してください」
「ああ、わかってる」
 二人が知りたいのは、どれほどの負傷なら健人へ引き継がれるかということ。つまり健人にフィードバックされるまで、この実験は終わらないのだ。
 できるだけ浅い傷で終わってほしいと願いながら、健人は身構える。
 ドクトルが再び左手の甲へとナイフを突き立てた。先ほど引いた切り傷を抉るように、ゆっくりとナイフを押し込んでいくと――、
「ぐあっ」
 突然、健人が呻き声を漏らした。見れば左手の甲に穴が開き、噴水の如く血が噴き出している。ドクトルが受けるはずだった肉体のダメージが、そのまま健人に移行したのだ。
「不思議ですね。最初の切り傷はそのままなのに、深く抉った傷だけがケントさんの方へ移っている。しかもナイフの先端は、私の手をすり抜けているようです。どういう原理なのでしょう?」
「なんでもいいから早く治してぇ」
「男の子なんですから、これくらい我慢してください」
「……男の子でも痛いものは痛いんだよ」
 なんだか今日はいやに手厳しいなと思っている間にも、ドクトルは一瞬で治してくれた。
 綺麗になったお互いの左手を見つめながら、彼女は嘆息する。
「これなら指を切り落とす必要もなさそうですね」
「そこまでやろうとしてたのか」
 すぐに治せるからといって思い切りがよすぎである。
 ふと、そこで魔が差した。健人は興味本位で余計なことを口走ってしまう。
「そういえばドクトルさんって、白魔法を使う時は必ず手で治療してるけど、それ以外の部位でもできるの? ほら、さっき包丁で切った指を口の中で治したみたいにさ」
「…………」
 目から鱗が落ちたような顔をするドクトル。しかし呆気に取られたのも束の間、次の瞬間、彼女は童心に帰った少女のように目を輝かせた。
「試してみましょう!」
 しまった、藪蛇だったか! と後悔しても、もう遅い。彼女はやる気満々だった。
 有無を言わさず、最初の状態に戻される。健人が両手をテーブルの上に置いたのを確認するやいなや、ドクトルは躊躇いもなく自分の左手にナイフを突き立てた。
「~~~~ッ」
「まずは肘から」
 痛みのあまり悶絶する健人を尻目に、ドクトルは意気揚々とローブの袖を捲り上げる。そして露わになった肘の先で健人の左手に触れると、「……ん」と力を込めた。
 ぼんやりとした淡い光が左手の傷を優しく包む。
 一瞬とはいかないまでも、ものの数秒でナイフの刺し傷は完治した。
「さすがだな。まさか両手じゃなくても治るとは」
「けど、やっぱり難しくはありましたね。普段よりも集中力が必要ですし」
 自分の肘を見つめるドクトルを眺めながら、健人は一息つく。これで仮にドクトルが両手を使えない状況で怪我を負っても、身体さえ触れていれば、白魔法で治療できることが証明されたわけだ。
「では、お次は……」
「まだやるの!?」
 止める余裕もなく、ドクトルは再び自分の左手を刺した。
「足で試してみましょう」
「……これで最後にしてね」
 涙を浮かべた健人は、ドクトルが治療しやすいようにテーブルの横で這いつくばった。出血した左手を床の上に置いて、白魔法を待つ。ドクトルもまた椅子を横へスライドさせた後、ローブの裾をつまみ上げようとしたのだが……ふと何かに気づいたように、彼女は顔を上げた。
 そして信じられないことを口にする。
「あ、ちょっと待っていてください。先に足を洗ってきますので」
「へ?」
 何から? という頓珍漢な質問をする暇もなく、ドクトルは浴室へ行ってしまった。
 土下座をするような形で彼女を見送った健人の顔から血の気が引いていく。
「う、嘘だろ?」
 このタイミングで? すでに尋常じゃないほど左手から出血してるのに!?
 顔面蒼白になった健人の額に、玉のような汗が浮かんできた。
「お待たせしました。……ケントさん、大丈夫ですか?」
「……ドクトルさんって、たまに天然な時があるよね」
「天然? もしかして怪我を治さずに放置したことを怒ってます? それくらい先日の大怪我に比べれば大したことないじゃないですか」
 あ、だから俺を傷つけることに抵抗がないのかと、健人は納得した。
 ギルティ・ローズの根っ子に貫かれ、何度も致命傷を負ったことに比べれば、確かにこれは圧倒的に軽症だ。さらに、いざとなれば自分が一瞬で治せるという自負。男の子なら我慢しなさいとの言葉通り、今は姉属性を存分に発揮中ということなのだろう。
 弟さんの苦労に想いを馳せている間にも、ドクトルは準備に取りかかっていた。
 健人の正面に移動させた椅子に座ると、ゆっくりとローブの裾を捲り上げる。形のよい五本の指が見えた後、陶器のように白く滑らかなふくらはぎが露わになった。
「…………」
 普段は目にしない艶めかしい素足を前にして、健人は思わず目を逸らした。いくら何でも、この至近距離は刺激が強すぎる。
「いきますよ。……ん!」
 足の裏で傷に触れると、先ほどと同じように眩い光が健人の左手を包んだ。肉の露出した赤黒い傷口が徐々に塞がっていき、皮膚が本来の色を取り戻す。
「できました。私の感覚だと、肘よりはやりやすかった気がします」
「じゃあドクトルさんが両手を使えない場合は、足の方を頼ればいいんだな?」
「そうですね。とはいえケントさんがいる限り私の両手が失われることはありませんし、何かしらの方法で拘束されてもすぐに解けると思うので、そんな状況にはまず陥らないかと思いますが」
「……そっか」
 なら今の時間は何だったんだ。ただ単に痛い思いをしただけだったじゃないかと、健人は心の底からうんざりしたように肩を落としたのだった。