01TEXT試し読み
悪逆令嬢のうろ覚え救済論 1
著者:Lynx097 イラスト:YOHAKU
プロローグ
私は倒れていた。
うつろな視界に映るのは一面の赤色。私の身体から零れ落ちた、私の命そのもの。
イカれた男に連れ去られ、どことも知れない場所で、尊厳を破壊しつくされ、人として最低最悪の死を迎えようとしている。
思えば、酷い人生だった。
いつだってうまくいかなかった。
学生時代には周囲の女子たちの反感を買って、いじめのターゲットにされた。理由らしい理由などなくて、だからどうしていいのかもわからなかった。気に入らないから、ムカつくから、調子に乗っているから。私は普通に生きているだけなのに、どうしろというのか。
しかも大学に進学してようやくスクールカーストから逃れられたと思ったのに、今度はストーカーに付きまとわれた。私のキャンパスライフは滅茶苦茶になった。ストーカー行為の動機はたまたま見かけて気になったから、らしい。そんなの、どう防げというのだ。
就職してからはようやく人生が上向いてきたかと思ったのだ。陰湿な女社会とは無縁なエンジニアの会社に入り、いい巡りあわせもあって恋愛もした。
やっと順風満帆に、なるはずだった。
すべてを台無しにしてぶち壊したのはあの男だ。大学時代に私に付きまとっていたストーカー男。警察の介入で沈静化したはずの彼が、何故か数年をおいて再び私の前に現れたのである。
より、凶悪さを増して。
会社からの帰宅中、夜道で一人になった瞬間を狙われて、私はあの男に捕らえられた。閉じ込められ、いたぶられ、救いはなく、ついに命が終わろうとしている。
胸中に去来するのは、ただひたすら答えの出ない自問。
なぜ、こんな目に遭うのか。
どうして、死ななくてはならないのか。
一体、なにが悪かったのか。
そうして、失意と絶望のうちに私の一度目の人生は幕を閉じたのだ─
あらためて、自己紹介をしておこう。
今の私の名はプリムローズ・フラム・アシュタルテ。
前世の記憶を持ったまま生まれた─いわゆる、転生者である。
一章 外道侯爵家のわがまま令嬢
─お嬢様は一体どうしてしまったのだろう?
クラリスにとってプリムローズという少女はなんとも不思議な存在であった。
十四歳のクラリスはこのアシュタルテ侯爵家のメイドの中では最年少だ。彼女が先達を差し置いて、侯爵夫妻の宝物である長女プリムローズの側役にという大役を任せられているのは、ひとえに他にやる者がいないためだった。要するに、若輩であるがゆえに損な役目を押し付けられたのだ。
メイドたちが口を揃えて言うには、プリムローズはとてもわがままな少女だ。甘やかされて育ったお嬢様は我慢を知らない。望みが通らなければ癇癪を起こすし、幼さゆえの残酷さで簡単に使用人を傷付け、あることないこと喚きたてる。侯爵家の人々はそもそも使用人など消耗品としか思っておらず、プリムローズがひとたび『アイツがいじめた!』などと言ってメイドを指差そうものなら、その瞬間に即刻解雇という無体がここでは罷り通るのだ。そんな環境では彼女の増長を諫めるものはますますいなくなり、メイドは順調に数を減らしていった。バランス感覚に優れたベテランのメイドは巧妙にプリムローズに関わる立場から逃げ、最終的にクラリスが押し付けられた─と、いうのがここに至る経緯である。
クラリスが思い返すと確かに、いつの間にか見知った顔を見かけなくなることがあった。そういう場合は大抵プリムローズの怒りにふれて解雇されているのだ。たとえそのメイドになんの落ち度もなかったとしても、気まぐれなお嬢様のさじ加減一つで簡単に職を失ってしまう。
しかし、クラリスはプリムローズを恐れるメイドたちの言葉にあまり共感することができなかった。というのも、何故か彼女はプリムローズの一番近くにいながらこれまで一度として理不尽を言われたことがないのだから。それこそ『とりあえずお嬢様にはクラリスを与えておけばよい』というのがここの使用人の暗黙の了解となるほどに。
不思議なのは、クラリス自身に心当たりがないことだった。どうして、と周囲は彼女に問うが、その答えは彼女のほうが教えてほしいくらいだ。
そんなプリムローズの様子が、少し前からおかしい。わがまま放題だったのが鳴りを潜め、急に物静かな少女になったのだ。ドレスも、宝石も、お菓子も求めない。メイドに対して遊べとも言わないし、歌えとも踊れとも言わない。
あまりに突然の変化に困惑した様子の侯爵から心当たりを尋ねられたが、クラリスにもさっぱりであった。強いて言えばプリムローズが様変わりする直前に、彼女を怒らせたメイドがまた一人解雇されていたが、そんなことは別に珍しくもない。最もプリムローズの近くに侍っていながら原因の見当もつかないクラリスを侯爵は無能と罵り、解雇を言い渡そうとした。ついに自分の番かと諦めを抱いたクラリスであったが、そこでプリムローズが父親を制止したのだ。
「クラリスをとっちゃ、や」
誰よりも娘に駄々甘の侯爵は、なんとも愛らしい懇願にころりと意見を翻し、晴れてクラリスの首は繋がったのである。侯爵からすれば『娘がお気に入りの玩具を取り上げられるのを嫌った』くらいの認識であるのは言うまでもない。クラリスはというと首が繋がったことの安堵よりも、二年間プリムローズに侍っていて初めて名前を呼ばれたことに驚いていたのだが。
あ、ちゃんと私の名前覚えてくださっていたんだ─と。
クラリスは孤児であった。親の顔をそもそも知らず、物心ついたときには既に孤児院にいた。そんな彼女がこの侯爵家のメイドとなったきっかけは、この家の長男─つまりプリムローズの兄に見初められたからだ。それも単なる偶然で、なにかの折に孤児院の近くを通りかかった彼がクラリスを見かけ、容姿を気に入っただけ。それだけのことでクラリスの命運は決まってしまったのだ。
アシュタルテ侯爵家は悪評ばかりの貴族だが、生粋の大貴族である。その言葉にたかが孤児院ごときが逆らえる道理もない。孤児であるクラリスが高等な礼儀作法など身に着けているはずもなく、分不相応の職場に見た目のよさだけを理由に放り込まれたならば、待ち受ける運命が悲惨なモノであるのは想像に難くない。どう取り繕ってもそれは、愛玩動物と同じ扱いでしかないのだ。外の世界をろくに知らなかった当時のクラリスですらそう思ったのだから、孤児院の大人たちにはより陰惨な未来が見えていたに違いなかった。
まず、そういう経緯で入ったクラリスに対して、先輩メイドからの風当たりは相当に強いものだった。彼女たちからすれば生意気にも『見目よい』というだけの理由で、メイドとしてはまるで使えない新人が入ってきたというのだから無理もない。誰一人としてクラリスの味方をする者はなく、それどころか彼女は壮絶な『歓迎』を受けることとなった。
クラリスを見初めた張本人である長男も結局は一時の気まぐれでしかなかったらしく、彼女が最低限の教育(という名のいびり)を終えて、メイドとして働き始めた頃には既に興味をなくしていた。もし彼がクラリスのことを気にかけていれば、少なくとも他のメイドも雑な扱いはできなかったことだろう。そうでない以上、彼女の役割は先輩メイドのストレス解消道具でしかなかった。役立たずで立場も弱い彼女は日々の鬱憤をぶつけるのにうってつけの対象だったのだ。
そんな日々が常態化した、ある日のこと。
クラリスは屋敷の裏手にある使用人用の水場で、汚れたお仕着せを洗っていた。先輩からの『歓迎』の一環で、ひどく汚されてしまったのだ。見た目の汚らしさも然ることながらそれ以上に酷い臭いであった。こんな汚物まみれのお仕着せで屋敷の中を歩くわけにはいかないので、仕事が始まる前に外で綺麗にしてこいと言い渡されるのは初めてではない。このような『歓迎』は日に日にエスカレートしていたが、クラリスは意地と根性だけで必死に食らいついていた。アシュタルテ侯爵家の評判は最悪だが、大貴族だけあって金払いはすこぶるよい。クラリスがここで理不尽な屈辱に耐えてさえいれば、世話になった孤児院に少なくない金銭を送ることができる。
しかしながら、アシュタルテ侯爵領はただでさえ寒冷な気候であり、悪いことに季節は初冬であった。お仕着せを脱いだクラリスは肌着姿で雪が降る中、凍えるような冷たい流水で洗濯をせねばならなかった。歯を鳴らしながら、感覚のない手を懸命に動かす彼女は、それゆえにいつの間にかそばに立っていた人影に気付かなかったのだ。
「ねえ」
不意の呼びかけに、クラリスの肩が跳ねる。
「だれがやったの」
ひどく小さな声で問われて振り向いたその瞬間こそが、クラリスとプリムローズの初邂逅であった。精々が庭師くらいしか訪れない場所だというのに、供も連れずに少女は一人で立っていたのだ。夜明けの空を凝縮したような美しい瑠璃色の瞳が、無感情にクラリスを見詰めていた。もこもこと可愛らしい冬用の外套を着て、肌も頭髪も淡雪のごとく純白なプリムローズの姿は、雪の妖精のように幻想的で現実感のない光景だった。唯一、その腕に抱かれたクマのぬいぐるみの存在だけが年齢相応の幼気であった。
クラリスにとって侯爵家は雇い主だ。その令嬢の接近に気付かないなど無礼極まりないことだ。しかし、そもそも肌着姿の時点で無礼もなにもあったものではない、とクラリスは半ば自棄になって、洗う手を止めないまま答えた。
「メイドのシンシアさんと、ヴァネッサさんですよ」
聞いたところでどうせ使用人の名前など覚えてもいないのだろう、とクラリスは考えていたし、事実プリムローズは興味なさそうに「そう」と呟いただけで立ち去ってしまった。
その後、結局クラリスは体調を崩して寝込むことになる。単なる風邪で、数日もすれば仕事に復帰することができたのは不幸中の幸いであった。
そして、復帰した彼女はそこで初めて知る。
メイドのシンシアとヴァネッサが、お嬢様の機嫌を損ねて解雇された、と。
◆◆◆
転生した先が知ってる漫画の世界だったら、どうする?
ある意味お約束だと思うだろうか。それともなにかの作為を疑うだろうか。私の場合はどちらでもなく、そんなこともあるのか、と他人事のように冷めた理解をするだけだった。非現実的だとかそんなのは、そもそも死んだ記憶を持って生まれてきている時点で今更なのだから。
さて、その漫画とは『夜明けのレガリア』という少女漫画だった。少女向け雑誌で連載されている少年漫画、と表現すべき作風だったかもしれない。男性でもとっつきやすい画風に王道の設定とストーリーで人気を博し、アニメ化もして続編も作られた人気シリーズだったと記憶している。前世の私が中学生の頃に最初のシリーズが始まって、当時はリアルタイムで連載を追いかけるほどにハマっていた。ただ、それから高校、大学と進学するにつれてサブカルチャーからは遠ざかっていったのだけど、就職してからもシリーズが続いていることだけは知っていた。
この作品を端的に表現するならば、バトルあり恋愛あり魔法ありの異世界学園ヒロイックストーリーだ。今世がその漫画の世界だと気付くのは簡単だった。なにせ、私ことプリムローズ・フラム・アシュタルテ侯爵令嬢とは『夜明けのレガリア』のストーリー上で非常に重要な役割を担うキーキャラクターなのだから。
その役割とは、完全無欠の『悪役』だ。
作中のプリムローズといえば『悪の権化』や『悪逆令嬢』など多種多様の二つ名(蔑称?)で読者から親しまれていたけど、最も馴染みのある表現は、ずばり『ゲスロリ』。下衆いロリっ子のプリムローズちゃんである。単なる悪役というより主人公のライバルキャラといったほうがよいかもしれないが、ライバルと称するにはいささか邪悪すぎるのが難点だ。
そんな悪役プリムローズの最期は、ラスボス戦の一歩手前で主人公と戦い敗北してこの世から退場するというものだ。彼女のすごいところは、『実は悲しい過去が!』とか『本当は優しい一面が!』とかそういうのが最後の最後まで一切存在しない清々しいまでの悪役だったことだ。
その清々しいまでの悪役が、今となっては私自身なのである。
異世界の学園ものということで、主人公の学生生活が始まるところから物語も始まる。プリムローズは主人公の同級生なので、今の私の年齢から考えて原作が始まるのはまだまだ先の話─のはずなのだが、不思議なことに今の私が姿見の前に立つと、原作でよく見たプリムローズちゃんが既にそこにいるのだ。
ゲスロリという蔑称が示す通り、原作でのプリムローズはとにかくチビだった。背が低いとか発育不良とかいう次元でなく、一人だけ幼いまま成長が止まったかのような有様だった。前世ではよくある漫画的表現だなとしか思わなかったけど、実際こうして自分事になってみると、成長期が始まる前に終わった感が否めない。
「…………むぅ」
ぺたぺたと自分のお胸を触ってみた私は悪くない。
キミ、もう大きくならないんだね……!
原作のプリムローズはそんな未熟な身体がコンプレックスで、みじめさの鬱憤を周囲にぶつけるはた迷惑な女子だった。悪いことに侯爵令嬢としての権力を始めとして色々な意味で力を持っているのでやりたい放題だ。そして、プリムローズが最も嫌うのは自身と正反対の女子。明るく前向きで、女性的な身体つきをしていて、可愛らしい少女。
つまり原作主人公ですねわかります。
自分で言うのもなんだがプリムローズは決して醜いわけではないし、むしろ超がつく美少女だ。作中でも『類稀な美少女ではある』って言われてた気がするし。問題は性格面。性格ブスを通り越して普通に悪党なのと、容姿の美しさを木っ端微塵にするレベルで悪役顔しかしないので、折角の可憐さをセルフで台無しにしているのだ。
プリムローズと彼女の取り巻きが行う陰惨で非道ないじめの数々は、前世の私に自分自身の境遇を強く意識させた。きっと私が当時『夜明けのレガリア』にハマっていたのは、そんなプリムローズに立ち向かう主人公の凛とした姿に感銘を受けたからだろう。程度は違えど同じような立場に置かれていた私は、しかし主人公のような強さとは無縁で、じっと耐え忍ぶことしかできなかったのだから。それでも私が学生時代のあの仕打ちに耐えられたのは、『夜明けのレガリア』から勇気をもらっていたからかもしれない。
その私が生まれ変わったらプリムローズだったなんて、なんとも皮肉めいた話ではないか。
姿見の中の白い少女とにらめっこしながら、私は考える。よりによってプリムローズに転生してしまった現実とどう向きあうべきなのかと。前世の私が唾棄していた連中の側に、今世の私は立つことになるのだ。
だけど、美しいとか醜いとか、いじめがどうとか原作がどうとか、そんなことより私の思考を支配したのは一つの強烈な衝動であった。
「死にたくない。二度と」
私は『夜明けのレガリア』のストーリー通りに歴史を進めようなんてことは微塵も思わなかった。原作通りに事が進めば私は死んでしまう。でも逆に、あえて主人公に味方したりとか、あるいはヒーローポジションのキャラを攻略してやろうとかも思わない。
ただ死にたくない、それだけがあった。
人は誰でもいつかは死ぬのだとか、それまでをどう生きるのかが大事だとか、そんなありきたりな説教など聞きたくもない。そんなことを言う輩には、私はこう言い返したい。
一度死んでみてから、もっかい言ってみろ。
前世であんな凄惨な死に方をして、やっと終われたと思ったのに、あろうことかもう一度始まってしまった。もう一度生まれたからには、もう一度死ぬのだ。自らの命が零れ落ちていく苦痛と喪失。私にもう一度、あれを経験しろと言うのか。冗談じゃあない。
つまるところ、私にとって転生というのは人生をやり直すチャンスなどでは決してなく。
必ず訪れる『死』という絶望の再生産に他ならなかったのだ。
◆◆◆
アシュタルテ侯爵家の使用人を統括しているのはオーレンスという名の老爺だ。執事長である彼は侯爵家の人々を過度に恐れることなく、さりとて過度に阿ることもしない。その最適な仕事ぶりが評価されていた。
オーレンスは自らの主人であるはずの侯爵家の人々を、『正常である』と思ったことがない。アシュタルテの人間は皆、どこか歪んだ部分があるのだ。それは時に人間性すら疑うほどの異常だが、不思議なことに、異常であるほどに有能なのも確かなのだ。誰もが少なからず歪んだ一族は、誰もが少なからず有能で、最悪な評判とは裏腹に領地経営は順調そのものだった。
アシュタルテ侯爵領はこのリヒティナリア王国の最北端であり、以北はディ・エンテという帝国の領土となっている。帝国は友好的とは言い難く、つまりアシュタルテ侯爵領とは対帝国における国家防衛の最前線なのだ。それを考慮すればアシュタルテ侯爵領が表面上は治安もよく、民が困窮することのない土地であるという事実こそが、なによりも雄弁に領主一族の有能さを示す証左となっていた。
ここでは住民に貧富の差こそあれ、誰でも生きていける環境がある。
ただし平穏に過ごしたければ、侯爵家の人々にだけは関わってはならない。
長年仕えているオーレンスをもってしても、当代侯爵の長女であるプリムローズはとりわけ印象的な存在であった。
彼女の世話はメイドの仕事であるため、オーレンスが直接関わることはないが逐一報告は受けている。プリムローズについての報告を読むと、基本的には物静かで利発なお子様らしいのだが、時折使用人の肝を冷やすような危険行動を平然と実行し、理解不能なわがままを言うことも少なくない、と。それだけならば貴族令嬢の生態として、さほど珍しくもない。しかしそれに加えて、多くの報告には口を揃えたように『奇妙』という所感が添えられていた。報告したメイドたちは、自分でも表現できない違和感を覚えているのだろう。このことにオーレンスは少しの興味を持つ。変人揃いのアシュタルテ侯爵家の人々を見慣れているメイドたちが、あえて奇妙だと評するしかない、普通ではない『なにか』がプリムローズにはあるのだ。
そんな折、彼はプリムローズより呼び出しを受けた。当時五歳だったプリムローズは、ろくに屋敷の外に出たこともない生粋の箱入り娘であり、職務上関わることのないオーレンスにとって、まったく予想のつかない呼び出しであった。もっとも、侯爵家の人々が理不尽なのは今更のことなので、彼は特に驚くでもなく興味半分面倒半分くらいの気持ちで令嬢のもとに顔を出した。
そこで開口一番に告げられた言葉に、今度こそ驚愕する羽目になる。
「しようにんを、まびきます」
「は?」
オーレンスは一瞬呆けてしまった。齢五歳の女児の口から、舌足らずな言葉で『間引く』と飛び出したのだ。理解に時間を要した彼を待つことなく、プリムローズは言葉を続ける。
「わがやには、むだなしようにんがおおすぎます。ごくつぶしはいらないの。むのうからきえてもらいます」
淡々と紡がれる言葉はたどたどしい発音とは裏腹にまったく淀みないものだった。どこかで耳にした台詞を真似して諳んじているわけでは決してない。オーレンスの目の前の幼女は腕にクマのぬいぐるみを抱えた、それこそお人形のような可憐な容貌だというのに、その瞳には既にアシュタルテの血筋がなす歪んだ風格の片鱗が覗いている。
経験豊富なベテランであるオーレンスは驚愕しつつも、思考は既にプリムローズの発言を検討し始めていた。
この侯爵家は大貴族らしく多数の使用人を抱えているのだが、それを考慮してもやたらとメイドの数が多いのは、ひとえに長男の悪癖ゆえであった。十代半ばにして既に浮名を流す彼は、見目よい女性を見かけるとすぐに屋敷に連れ帰って囲う悪癖がある。大抵は少し遊んで飽きてしまうので、そういう輩は仕事もろくにしないくせに名目上はメイドとして屋敷に居座ることになる。プリムローズ風に表現すれば『ごく潰し』となるわけだ。
これはオーレンスの悩みの種でもあって、彼女たちはメイドの仕事をしなくても、長男に媚を売っておけばそれだけで給金が発生する。何故ならば長男がそういう約束で連れてきたからだ。長男のメイドである以上、執事長のオーレンスといえども彼の許可なく勝手に解雇する権限はなく、結局は目を瞑るしかない。それができるとすれば父親の侯爵であるが、彼は彼で長男の裁量に任せていて口出しする気配もないのだ。
オーレンスとしては悩ましいものの、目を瞑ろうと思えばいくらでも無視できる範疇ではあった。ただし、大人しく長男に媚を売るだけの存在に徹してくれるならば、だが。
「そういえば、つい先日もまた一人、メイドが増えましたな」
オーレンスは思い出して、呟く。
一番新しいメイドの名は、確かクラリスといったか。
プリムローズの瞼が、ぴくりと微かに震えたように見えた。
「して、お嬢様。この私めに無駄なメイドを間引けとお命じですかな?」
残念ながらそれは難しいと言わざるを得ない。彼は執事長といえども中間管理職。最終的な人事権を握っているのは侯爵であり、オーレンスにできるのは精々が進言することくらいだ。そして侯爵は彼の言葉に耳を貸しこそすれ、行動に移すことなどないのはこれまでが証明している。
実際のところ、侯爵が長男を好きにさせているのはごく潰しがいくら増えたところで侯爵家の財力をもってすれば痛くも痒くもないからだ。彼らはごく潰しのメイドの存在を『多少維持費がかかる玩具』くらいにしか思っていないのである。
現実は違う。いくら彼らがモノ扱いしようとも、彼女らは主張もすれば欲求もある一個の人間である。長男の愛人気取りのメイドが徒党を組んで幅を利かし始め、それに嫌気がさして職を辞すベテランも少なくない。この侯爵家の使用人の質が劇的に悪化しつつある現状にも目を向けていただきたいとオーレンスは常々思っている。だがそれを侯爵に言ったところで、それをなんとかするのがお前の仕事だとにべもなく告げられるだけなのだ。
オーレンスの問いかけに、しかしプリムローズは首をふるふると横に振った。
「そこまではもとめない」
「では?」
「あなたがふようとはんだんするものを、わたしのそばやくに、にんじなさい」
その言葉を聞いた瞬間、オーレンスは思わず口元が歪みそうになるのを堪えた。
プリムローズの瑠璃色の瞳が、ひどく酷薄に、挑発的に細められる。
「できないとはいわせません。あなたはとうかつなのだから」
お前は無能ではないのだから、そのくらいはできるでしょう? ─と、言外の挑発が聞こえた気がした。
つまりは執事長として全使用人を統括する立場なのだから当然、誰が無能なのか把握しているはずだ、とプリムローズは言うのだ。その程度のことすら把握できていないのであれば、そのときはオーレンス自身が無能の烙印を押されることになる。使用人を解雇する権限はなくともその配置を決めることはできるので、彼の一存でプリムローズの傍役を命じることは可能だった。
「なるほど」
意図を察したオーレンスは、今度は堪えることなくニヤリと笑ってみせた。
これはつまり、お誘いなのだ。片棒を担げ、という。
「では早速、本日からでも始めましょうぞ」
オーレンスが慇懃にそう言うと、プリムローズは礼儀正しくぺこりと頭を下げて「よろしく」と告げた。
その日の午後。
オーレンスがプリムローズの傍役に命じた『ごく潰し』のメイド二人が、早速盛大にやらかして彼女を泣かせ、激怒した侯爵によってその場で解雇されたと報告があった。まさか今日の今日で事を起こすとは思っていなかったオーレンスが大慌てでプリムローズのもとに赴くと、大泣きしていたはずの彼女は嘘みたいにけろりとした表情で紅茶を飲みつつ、
「つぎ」
などと言ってくる。
流石のオーレンスも、これには乾いた笑いが出た。
なるほど。確かにこれは普通ではない。
◆◆◆
まったく、お兄様にも困ったものだ。
我が家の女性使用人には二種類ある。それは『メイド』か『ごく潰し』かだ。困ったことに上のお兄様は女性関係にだらしなくて、気に入った女性を次から次へと連れ帰ってくるのだ。しかも大抵すぐに飽きて興味を失うくせに、もとの場所に返してこないものだから、仕事をしない名ばかりメイドがどんどん量産されていく。
彼女たちの立場は愛人でも娼婦でもなくメイドだというのに、職務を果たさないばかりか、身繕いをしてお兄様に媚を売ることしか考えていない。もちろん、中にはちゃんと仕事をする真面目な女性もいるのだけど、少数の例外に過ぎない。たぶん、そもそも容姿がよくてチヤホヤされてきたような女性がお兄様の目に留まりやすいのだろう。
悪評ばかりの我が家に拉致同然で連れてこられてしまったのだから、自衛のためにはお兄様に取り入るしかない部分もあって、同情すべき点がないとは言わない。でも、それと仕事をしないことは別問題だと私は思う。
ここで、唐突に我が侯爵家のイカれたメンバーを紹介するぜ!
現当主である父親。これは腹黒。外面は温厚なナイスミドルだけどお腹の中はタールよりも黒い。
件の長男。これは女たらし。頭と同じくらい下半身が優秀。馬鹿じゃないからタチが悪い。
それから次男。これは暴君。ちょっとどうかと思うくらいに俺様。ワールドイズマイン。
からの長女。これは私。言わずと知れたゲスロリ令嬢。リア充を爆発(物理)させる系女子。
他家から嫁いできた母親は、尋常じゃなくプライドが高くてヒステリックだけど、この家の中ではオアシスレベルで癒し系。
これは酷い。
奇妙なことに、これで意外と家族仲は悪くないのだ。全員個性がとんがっているけど、皆が皆違うほうを向いているせいで不思議と衝突しないのだ。そういう意味では、このアシュタルテの血筋というのは実によくできている。上のお兄様が欲望のままにメイド擬きを量産しようが、お父様もお母様も下のお兄様も咎めようとはしない。私は正直不快な趣味だとは思ってるけど、やっぱり口出しも手出しもする気はなかったのだ。だからオーレンスを巻き込んで大掃除をしようなんてことも考えていなかった。そもそもそんな気力もないくらいに、私は『転生』という『絶望』に打ちのめされていたのだから。
それが変わったのは、あの子と出会ったから。
五歳のころ、私は屋敷の中を一人で歩いていた。
私の中身はいい大人なのだけど、ある程度は意識してわがままなお嬢様を演じることにしている。この家はお利口でいることが美徳となる場所ではないし、自己主張をしなければ際限なく馬鹿を見る。何故って個性が強すぎる家族に対抗するには私もとんがるしかないからだ。幼くなんの力もない私が自分を主張するために、唯一取り得る手段こそが『わがまま』なのだ。こうやって原作のプリムローズの自分本位な精神性が形成されたのかと思うと、なんとまあ嫌な英才教育もあったものだよ。
お父様は私を溺愛しているように見えるが、あの腹黒が見た目通りの内心をしているわけがない。表向きは私に味方してくれるのもわかっているから、ありがたく利用させてもらうこともあるんだけど。あの人、私がそうやって利用していることをわかっている節があるからなぁ……。実父ながら、まったくもって油断ならない相手だ。
ともかく、そういう理由で私はわがままなお嬢様でいることを心がけている。中身が大人なので不自然さが出たりもして、たまにメイドに奇妙な目をされるが。
もっとも、幼女のわがままなんてたかが知れていて、大抵はこうして家庭教師の授業をすっぽかして邸内を勝手に散策したりする程度だ。前世が一般庶民だった身としては豪華絢爛な屋敷の中を歩いているだけでも結構楽しいし、五年間生活している場所とはいえ敷地が広すぎて、子供の行動範囲ではまだまだ未踏の場所がいっぱいだ。
そんな折、私はいじめ現場に遭遇した。
「ちょっとクラリスさん? これ本当に掃除したのかしら?」
甲高い声でそう言ったメイドの顔を柱の陰からこっそり覗き見た私は、そのケバい厚化粧で『ごく潰し』のほうだとすぐにわかった。どうやらメイド三人で廊下の掃除をしているところらしい。声を上げたメイドの傍らにはもう一人ケバいメイドがいて、叱責されているのは少し離れたところで掃除をしていた若いメイドだ。
「ちゃ、ちゃんと掃除しましたっ!」
慌てて返事をしたそのメイドはクラリスちゃんというらしいが、銀髪と空色の瞳が綺麗な、非常に美しい外見の少女で、たぶん十代前半くらいだろう。少し前に上のお兄様が貧民街で拾ってきた子に違いない。将来が約束されたような美しい外見をしているので、お兄様の目に留まったのも頷ける。手を出すには流石に幼すぎるから、キープのつもりで連れてきたのかな。
「うそおっしゃい! こんなに汚れてるじゃないの!」
声を上げたケバメイドがインテリアにすっと指を這わせて、付いた埃をフッと飛ばしてみせる。姑の嫁いびりそのものだが、これ自体は別に理不尽なわけではない。言うほど埃は飛んでないものの、わずかでも残ってる時点で落第点には違いないのだから。
「も、もうしわけありません! すぐにやりなおしますっ!」
クラリスちゃんは真っ青になって駆け寄ってきて、もう一人のケバメイドが突き出した足に躓いて勢いよくすっころんだ。私は思わず片手で口を覆う。顔面からいったよあの子。下が絨毯でよかった。
だが運が悪いことに、こけた拍子に水拭き用に置いてあったバケツが倒れてしまい、汚れ水が派手にぶちまけられてしまった。
「あ、あああ⁉」
「あーあ。なにやってんのよ」
涙目のクラリスちゃんが大急ぎでバケツを立て直すが、中身は既に絨毯に染みを作っている。動転した彼女は手に持っていた雑巾で絨毯を拭こうとするが、そんなものでどうにかなる事態じゃない。
「アンタ、責任もって片付けなさい─よっ!」
「きゃあっ⁉」
あろうことかケバメイドは、四つん這いになって必死に絨毯を拭うクラリスちゃんのお尻を蹴りつける。バランスを崩して汚れた床に再び顔から突っ込んだクラリスちゃんの姿をひとしきり嘲笑って、そのまま二人のケバメイドは立ち去った。
私はその光景を、冷めた目で見ていた。こういう光景は珍しいものではない。ケバメイドたちによる陰湿な抗争は日常茶飯事なのだ。クラリスちゃんなんて絶好のカモだろう。まだこの屋敷に不慣れで、幼く未成熟で、そして群を抜いて美しい。上のお兄様の寵愛を受けることでしか生きられないケバメイドたちにとって、彼女を弾圧するのは一種の生存本能だ。対抗馬が少ないほど、自分がお兄様の目に留まる確率が高くなるのだから。
「さいしょからゼロなのにね」
クラリスちゃんは不憫だが、この調子ならすぐに逃げ出すだろう。彼女がいた孤児院は遠くないはずなので、自力で帰ることも難しくあるまい。どうせ上のお兄様も気まぐれだから、クラリスちゃんが去ったことに気付きもしないだろう。
床に突っ伏したまましばらく震えていたクラリスちゃんは、やがてゆっくりと起き上がると、お仕着せのスカートに染みを作りながら座り込んで、ぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。
「うぅ……ぐすっ」
だけど、すぐに袖でぐしぐしと拭うと表情を引き結んで立ち上がり、よろよろと歩いていった。逃げるのか、それとも掃除道具を探しにいったのかはわからないけど、私はなんとなく後者な気がした。
「…………あとはまかせます」
私はお目付け役としてこっそり付いてきていたメイドにそう告げると、その場を後にした。
それからも何度か同じような場面に遭遇した。私が屋敷内でクラリスちゃんを見かけると、彼女は必ずいじめられている。そのたびに彼女は傷付いた顔をするし、涙も流すけど、最後には屹然と立ち上がるのだ。私の予想は裏切られ、クラリスちゃんはどんな理不尽に晒されようと、この職場を去ることはなかった。
「なぜあの子はにげないの?」
お目付け役のメイドにきくと、どうやらクラリスちゃんは自分が世話になった孤児院の助けになるべく仕事を続けているのだという。
私は思った。
似ている、と。
そして、あの日。
私はケバメイドがおかしげに会話しているのを耳にしたのだ。
「ちょっとぉ。あれは流石にやりすぎなんじゃない?」
「なによ。もしかしてあの子の心配でもしてんの?」
「だって、あんなに汚したら時間までに絶対綺麗にならないって。そしたら、くっさいあの子と一緒に仕事すんのよ?」
「うわサイテー。それは考えてなかったわぁ」
「あ、でも。あの子もともとクサいから今更か」
「わかるわかる、なんか貧乏な臭いするよねぇ!」
物陰に隠れて二人をやり過ごし、私は溜息を吐く。誰が聞いているかわからない場所であのような会話をするなんて、職業意識が決定的に欠けていると言わざるを得ない。
不快だった。
それも、激烈に。
他人を貶めて悦に浸る者たちの嘲笑が、忘れ去りたい私の記憶をどうしようもなくリフレインさせるのだ。
─ねぇねぇ、ちょっとやりすぎじゃない? 先生にバレたらヤバいかも。
─どうせあの子の言うことなんて、誰も信じやしないって。
─てかセンコーが動くわけないじゃん。あのことなかれ主義がさぁ。
─いい薬でしょ。アイツ最近調子乗ってるし。
あの笑い声が脳裏にこびりついて離れないのだ。きっと彼女たちも私本人が聞いているなんて思ってもいなかったのだろう。私がなにをしたんだと、私がいつ調子に乗ったのかと、飛び出して叫びたくてもあの日の私は歯を食いしばって耐えるしかなかった。
何故なら彼女たちの言う通り、私の味方なんて誰もいなかったからだ。
いじめをやる側は一時のストレス解消なのかもしれないが、やられた側は絶対に忘れられないのだ。死ぬまで覚えているどころか、生まれ変わっても消えない傷となっている。
「……さいてーだわ。ほんとに」
誰にともなく呟き、私はとりあえず彼女たちが歩いてきたほうに行ってみた。二人が誰の話をしていたかなんて考えるまでもない。そのまま屋敷の裏手まで行ってみると案の定、冷え込む初冬だというのに肌着一枚で、屋外の水場で必死にお仕着せを洗うクラリスちゃんの姿を見つけたのだった。
「…………」
涙を零しながらも、歯を食いしばって挫けんとするクラリスちゃんの姿に、私はやはり親近感を覚える。
わかるんだ。その気持ちが。
なんで私が、って思うんだよね。
理不尽だと思うし、腹が立って腹が立ってしょうがないんだ。
でも逃げるわけにはいかなくて、必死に耐えるしかないんだよね。
誰か助けてって心で叫び続けて、でも声に出すことはできなくて。
しかも誰より自分がわかってるんだ。
誰も助けてなんてくれないって。
私も、逃げるわけにはいかなかった。決して楽な家計ではなかったはずなのに、必死に働いてやりくりしていた母にこれ以上の負担をかけたくなかったから。
だから私は耐えて、耐えて、耐えて、耐えるしかなかったのだ。
あの日の私が、今、目の前にいる。
私は知っている。
『夜明けのレガリア』にクラリスという名前のメイドなど登場しない。
理由はわかる。仮に私が原作通りの性格をしていたら、むしろ率先してクラリスをいじめ抜いて、ケバメイドの比ではないような残酷な仕打ちをしたはずだからだ。
きっと、原作のクラリスはそれでも歯を食いしばって耐え続けて。そして─
原作開始時には、既に死んでいたのだ。
私は原作のプリムローズと同じ行動を取るつもりはない。原作の流れを辿れば私は死んでしまうから。むしろ、原作とは真逆の行動を取るべきだ。
いや、そんな理屈はどうでもいい。
結局私は、今この場で誰よりもクラリスちゃんの気持ちがわかってしまう。
だって彼女にはなんの落ち度もない。貴族の気まぐれで拉致同然に連れてこられ、仕事もろくに教えてもらえず周囲の鬱憤を晴らすための標的にされる日々で、誰も助けてくれない。
だからきっと、彼女は私と同じ結末に至るだろう。
なんで、どうしてと言い続け、失意と絶望の中で死んでいくのだ。
私は、それが我慢ならない。
私がプリムローズに生まれ変わった意味があるとしたら、それは今だ。かつての私が、してもらえたらどんなに嬉しかっただろうと思えることを、この少女にしてあげたいのだ。半分はクラリスちゃんのためでなく、死んだ私の意地のため。
プリムローズがクラリスちゃんの側に立つことで、彼女が健やかに育つことができて恋でもして、いつかは『生きていてよかった』と思えたならば、きっと無様でみじめな私の前世も報われるのだ。
その人生に意味はあったのだと。
私は、初めて彼女に声をかけた。
「ねえ……だれがやったの?」
びくりと肩を跳ねさせたクラリスちゃんの、こちらを見る投げやりな瞳を覚えている。
この日この瞬間が、本当の意味で今世の私が生まれた瞬間だったのだろう。彼女と出会うことで、私にとって私は『物語の中の誰か』ではなくなり、私自身として生きる理由を見つけたのだ。
