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あなたが生きるこの世界で 1
Title

あなたが生きるこの世界で 1

著者:柴野日向
イラスト:烏羽雨

第一章 きみは幽霊?

 都会の人間はかくも冷たいものなのか。
 速水皐は長い赤信号を待ちながら、片側二車線の道路を隔てた雑踏をぼんやりと眺める。肩にずっしりと食い込む通学鞄を揺すり上げ、自分も都会の一部であるに違いないと言い聞かせた。
 人混みの中で、十五歳頃の皐と大して変わらない年代の少年が右往左往しているのが目に入った。すぐそばの駅から出たはいいものの、道に迷ったに違いない。行き交う人々のそばにふらふらと寄るが、彼のために足を止める者は誰一人いなかった。横断歩道を渡る皐には、少年の途方に暮れた表情が明らかになる。可哀想に、一人ぐらい相手をしてやってもいいだろうに。
 それなら私が、という思いを皐は頭の奥に押し込んだ。
 速水皐は面倒見の良い女子生徒と評されることが多いが、本人はその性分をただのお節介だと捉えている。困っている相手を放っておけず世話を焼いた末、思わぬトラブルに巻き込まれることは多々あった。初めの頃は相手に悪感情を抱いたものだが、高校一年生にもなれば、それは自分のお節介のなせる業だと気が付いた。
 放っておけない性格から、小学校の登校班では班長を、教室では学級委員を、クラブ活動ではリーダーを任せられる生活は懲り懲りだ。新たな高校生活では、ひたすら目立たず平和に過ごすのだと決めている。見知らぬ少年が迷子になろうが、都会に生息する自分には何一つ関係のない話だ。
 皐はローファーでアスファルトを叩く速度を速め、揺れる波のような人の流れに乗る。ごめんよ、私は真っ赤な他人なんだ、助ける義理なんてこれっぽちもない。
 皐が皐であるが故、彼女は胸の奥でそう謝罪しつつ、ちらりと視線を向けた。すれ違う少年の振り返る顔がばっちりとこちらを向いている。黒い瞳同士が真っ直ぐ交錯し、一筋の線を作った。
 その線を辿った先で、少年の困惑した表情がしっかり自分を意識するのが見えた。
「あの、すみません」
 ぱたぱたと駆け寄ってくる少年の声。それを聞きながら、皐はいっそう足を速める。
 しまった。あれはこの世の者じゃない。だからみんなが無視していたんだ。
 速水皐にはもう一つ困った性質があった。本人が全く望んでいないにも拘わらず、オカルティックなものが視えてしまうのだ。極稀な事象に過ぎなかったが、彼はあまりにはっきりとした姿をしているから、間違えてしまった。
「僕のこと、見えてるよね」
 疑う余地もない。この世ならざる少年がついてくるのを感じ、皐は口の中で「見えてない、見えてない」を繰り返す。
「私はあなたに何もできない。だからどこかに行って」
 大抵はこの言葉を繰り返すうちに諦めていく。
 だが少年はどこまでもついてきた。皐はたまらなくなり、鞄の重さも忘れて走り出した。
 ぺたんこのローファーで足が痛む。期末試験の結果だけでもうんざりなのに、このうえ幽霊を拾う余裕なんてない。
 走りながら鞄から鍵を取り出し、家の敷地に飛び込んでもつれる指で鍵を回した。開けたドアからするりと中に入り、しっかりと閉めて鍵をかける。ドアにもたれ、呼吸を荒くする肩から鞄が落下した。震える手でドアに手をつき、覗き穴からそっと様子をうかがう。
 狭い視界に人の姿はなかった。少年の声は既に聞こえず、気配も消えた。それでもきょろきょろと目を動かし耳を澄ませてたっぷり三分は待った。
 どうやら撒けたみたいだ。安堵のため息を吐いて、上がり框に勢いよく腰を落とす。
「あーもう、なんなんだよ、いったい」
 自分を安心させるために、大きな声で文句を垂れた。看護師の母は仕事に出ており、父親は単身赴任中で家を空けている。自分しかいない家の中は心細いが、安全地帯には違いない。
「汚れちゃったし。ついてないなあ」
 拾い上げた鞄の汚れを手で払いながら、ようやく靴を脱いだ。
 母が仕事で遅くなる日は皐が夕飯のおかずを作ることになっているが、帰宅まではまだ時間がある。コップ一杯の冷えた麦茶を一気飲みし、自室へ階段を上がった。
 閉め切った部屋には、嫌というほど熱がこもっていた。もう七月も半ば、初夏に蒸される室内は足を踏み入れただけで汗が滲む。クーラーをつける前に換気をしようと、掃き出し窓の鍵を回してスライドする。
 同時に、ベランダの隅にある室外機の裏から少年が立ち上がり、皐は思わず甲高い悲鳴を上げた。
 のけ反ったあまり、バランスを崩して部屋の中に尻もちをつく。尻と腰から上がる鈍い痛みを感じる間もなく、窓を閉めようと手を伸ばした。
 しかしその時には既に、彼はすんなりと部屋の中に入ってしまっていた。
「ごめんね、他に見える人がいないもんだから」
「ちょ、ちょ、ちょっと!」
 軽い謝罪をする少年の幽霊に、皐の舌はもつれる。
「私何もできないから! 見えるだけだから、他の人の所に行ってよ!」
「他の人って誰?」
 うっかり言葉に詰まる。律儀に思考を巡らす皐をおいて、少年はぐるりと部屋を見回している。その靴が床に足跡をつけるのを見て、「あーあー!」と皐は声を上げた。
「床! 床汚れちゃってる! 動かないで!」
「ごめんごめん」
「だから動くなって……」
 彼が動く度に足跡が増えるのに、はたと口を閉ざす。幽霊が足跡をつける? 少なくとも、皐がこれまで見てきたそれらしい者たちは、足跡などつけられなかった。
 そっと膝でにじり寄り、立ち止まる少年の足を指先でつつく。そこには確かに人体の感触があった。
 この幽霊には、実体がある。
「あんた、幽霊じゃないの?」
「分かんない」
 少年は脱いだ靴をひょいとベランダに揃えて置く。居座る気満々の彼を皐は呆気に取られて見上げる。耳にかかる黒髪、白いシャツに紺のジャケット、黒いズボン。皐より少し背丈のある彼は、旺盛な好奇心を表すように黒い瞳をよく動かす。
「その前のことが思い出せないんだ。別に死んだ覚えもないんだけど、他の人には姿が見えないみたい」
「ここにはどうやって」
「のぼったよ。だって玄関から入れてくれそうになかったし」
 彼は家の壁を伝ってベランダに上がり、窓が開くのを待っていたという。これほどにアクティブな幽霊の姿を皐は見たことがない。彼の見せる笑顔に悪意は露ほども感じれず、どうやらすぐに呪われることはなさそうだ。
 汚れた床を雑巾で掃除し、窓を閉めてクーラーをつけ、ようやくベッドに腰掛けると、少年は中央の円型のラグにあぐらをかいた。ベッドと勉強机、小ぶりな本棚と小さな座卓がある部屋は、既に心地よい室温まで冷えている。
 漢字も名字も知らないが、少年は「トワ」と名乗り、確か十五歳だといった。自分の生死すら記憶になく、周囲の人々は誰もその姿が見えず、声すらも聞こえない。丸一日さまよい続け、ようやく自分の姿と声を認識できる相手を発見した。それが速水皐だった。
「僕ってさあ、死んだのかな」
 上目遣いに自分を見るトワに、皐は「知らない」と素っ気なく言い捨てる。
「こんな幽霊見たことないし」
「でも、誰にも姿が見えないみたいなんだよね。この近くで人が死んだとかないの?」
「少なくとも、私は聞いてない。そりゃあ何年も前に遡ったら分かんないけど、最近は事故も事件も聞かないよ」
「ふうん」彼はぽりぽりとこめかみをかく。「そんなら、もっと遠くで死んだのかな」
「知らない」
「冷たいなあ」
「だって私には関係ないし。言ったじゃん、何にもできないって。幽霊だとしてもそうじゃなくても、私にはどうしようもないの」
 すると彼は膝をそろえて正座をし、ぱちんと両手を合わせてみせた。
「お願い、助けてよ」
「やだよ」
「そんなこと言わないで」
 皐は立ち上がり彼のそばに寄ると、その袖をおもむろに引っ張った。服の内側には仄かに温かな人間の体温があった。
「うるさい、早く出てって!」
「助けてくれるまで出て行かない」
「迷惑!」
 どれだけ引っ張っても頑として動かない少年に、皐は心の底からため息を吐き出す。どうして自分がこんな目に。目の前の彼を蹴っ飛ばしてやりたい気持ちを辛うじて抑え、同時に不憫だと思う同情心を飲み下す。こんな得体の知れないものにお節介を焼く必要はない、自分は偶然見えて聞こえてしまうだけ。それだけなのだから。
「私は協力しないから、気が済んだら出てってよ」
 そう言い捨てたが、トワという少年はわざとらしく唇を突き出して、不服そうな顔をするだけだった。
 仕事を終えて疲れている母に、家の中に幽霊らしきものがいるとは言えなかった。現に彼が皐の隣に立って甘辛い肉団子を羨んでいる姿は見えておらず、声も聞こえていない。鬱陶しいほかに害のない現在、余計な心配をかけたくはなかった。
「お母さん、明日は夜勤だから。遅くまで遊び歩いたりしないのよ」
「分かってるってば。ごちそーさま」
 食器を片付けるべく立ち上がり、皿を重ねる手を止めた。「ねえ、お母さん」テレビの天気予報を眺める母に声を掛ける。
「この辺で、最近事故とか事件ってないよね」
「なによ、急に。事件ねえ……ここしばらくは聞いたことないけど」
 その台詞に、トワが腕を組んでふーむと唸る。
「あんた、また変なもの見たの」
「まあちょっと……」
 変なものの目の前で問いかける母に、苦い思いをしつつ皿をシンクに下げた。
「大したことじゃないんだけど」
「あまり気にしちゃ駄目よ。そのうち見えなくなるだろうから」
 母は心霊など信じてはいないが、娘の不安を心配してくれる。それが分かっているから、下手なことは言えなかった。
 夜が更けても、トワは一向に部屋から去る気配を見せない。助けるまで本当に出て行かないつもりなのか、皐がベッドで眠りにつこうとすると、勝手にクッションを集めてラグの上に枕を整えている。
「そんじゃ、おやすみ」
「勝手におやすむな、馬鹿!」
 ぷんぷんと頭から湯気の出る思いで、皐は彼に背を向けて手の中のお守りを握りしめる。嫌なものが見えてしまった夜は、こうしてお守りを手に眠るのが習慣だった。朝になったらこの邪魔者が綺麗さっぱり消えていますように、どうかお願いしますと願をかけ、瞼を閉じた。
 幽霊のくせにぐっすり眠ってあくびをする姿が、寝起きの視界の真ん中にある。昨晩は何だか悪夢を見た気がするが、どうやら未だにそれは続いているみたいだ。寝ぼけ眼で「おはよー」と言う顔に挨拶を返すつもりは毛頭ない。
「出てって」
 自分の枕を掴んでトワの頭にぶん投げるが、やつは憎らしいことにひょいとそれを避けた。
 朝から憤慨しつつベッドから下り、クリーム色の生地に可愛らしい水色の花模様が散りばめられたカーテンを引く。眩しい初夏の朝陽が朝の訪れを告げ、掃き出し窓を開けると早くも蝉の鳴き声が部屋になだれ込む。
 皐はベランダに並んだ靴を掴むと、ぽいと柵の外に放り投げた。
「あっ、僕の靴!」
「私は着替えるから、さっさと出て行きなさい!」
「どっか行くの?」
「学校に決まってるでしょ」
 トワは渋々窓の外に出て、皐はようやく彼を部屋から追い出すことに成功した。制服に着替えて登校の準備をしつつ、こっそり台所から拝借した塩を部屋の四隅に盛る。盛り塩は結界の役割を果たすという、もしかすると今後の侵入を防げるかもしれない。
 行ってきますとドアを開け、当然の如く待っていたトワを無視して歩き出した。
「ねえ、どうしてもだめ? きみだけが頼りなんだよ」
 後ろからトワが懇願の声を掛け、隣に並んで拝むように手を合わせる。
 その様子が視界の隅に入るが、皐はひと言も返事をせず、まるで気配の欠片も感じていない風を装った。やはり彼の姿も声も、道行く誰一人認識できていない。正面から歩いてくる人を彼はいちいち避けなければならず、その度に皐の背中側へ下がった。
「僕さ、これからどうしたらいいか分かんないんだ。ずっと一人でさまよい続けるなんて嫌なんだよ」
 だからって私には関係ない、私を頼られたって仕方がない。
 彼に立てる義理なんてこれっぽちもないし、行動するのもうんざりだ。お人好しで面倒見が良くてお節介な人間は、いつだって損な役回りになる。それを損と捉えるんだから、私は親切な人ではない。あんたの事情に関与することで、私に微塵も得はない。
「ついてくよ、どこまでも。他にどうしようもないんだし」
 舌打ちしそうになり、皐は立ち止まって彼を睨み、怒りを込めて囁いた。
「ついてくんなって言ってんの、分かんない? 迷惑なの、めいわく。あんたがどうなろうが私には関係ないの、知ったことじゃない、勝手に一人でさまよってれば? さっさと目の前から消えてよ」
 早口で言い捨てるとさっと踵を返し、校門まであと十分の道のりを早足で進む。幽霊の足音はついてこず、縋る声も聞こえない。私は間違ったことなんて言ってない。頭の中で何度も自分に言い聞かせ、せいせいしたとわざと口の中で呟いてみる。私には何もできないんだから。
 期末試験を終え、夏休みを控えた水泳の授業後ほど気合の抜けるものはない。
 呪文のような古文の言葉が耳を右から左へ流れていく。教室中がとろんとした空気に包まれ、中央列の一番後ろの席で皐も眠気に抗っていた。あと三十分で放課を迎える七月の午後、お腹も満たされ体力も使い、クーラーの風も心地よく、眠るなというのには無理がある。
 しかし皐の頭には、眠気を妨げるわだかまりが薄雲のように広がっていた。
 少し言い過ぎたかもしれない。今朝がた自分の発した台詞が内心にひっかかり、脳内でリフレインする。他人に対し、目の前から消えろというのは、あまりに無作法ではなかったか。
 筆箱からはみ出したシャープペンシルの側面を右手の指先でなぞり、左手で頬杖をついて前席の生徒の背中をぼんやりと眺める。私には無関係、頼られたって仕方がない、こうして気にかけるお節介が面倒ごとを引き寄せるんだ。何度も自分に言い聞かせ、そうしても本心が納得しないことに気が付いた。この偽善者めと自虐しても、無意識は操作しようがない。
 トワはきみだけが頼りだと言い、現に誰も彼の存在に気付くことさえない。ほんの一日前に見かけた、駅前で途方に暮れる少年の姿と、それを可哀想だと確かに感じたことを思い出す。記憶もなく話し相手もいない少年は、今も街のどこかを彷徨っているのだろう。皐に言われた通りに。
 放課後、皐は手を合わせて友人に謝った。
「ごめん、今日は用事あって。また誘って!」
 カラオケに行こうと皐に声を掛けた同級生の仁科陽葵は、きょとんとした後、分かったとあっさり引き下がった。
「そんなに勢いつけなくても、また誘うし。てか用事って?」
 背が低く小柄な陽葵は、くりくりした目で不思議そうに瞬きをする。耳の下で二つに結った髪型が似合う彼女は、まるで小動物のようで可愛らしい。彼女は皐の中学時代からの友人だった。
「えっと、まあ、大した用事じゃないんだけど」
 皐が言い淀むのに、彼女はあっけらかんとして「そっかー」と頷く。
「彼氏でもできた? ってそんなはずないか」
「失礼だな。図星だけど」
 手を振り合い、皐は教室を後にした。
 自ら探しに行くまでもなく、彼の姿は目に飛び込んできた。
 玄関の靴箱の上に腰掛けて足をぷらぷらさせながら、行き来する生徒を眺めている。思わず脱力する皐を見つけると、呑気に手を振ってみせた。
 他の生徒もいる前で話しかけるわけにもいかず、皐は脱いだ上靴を靴箱に突っ込みローファーに履き替える。
「いやあ、いろいろ行ってみたけど、なーんにも思い出さなかったよ」
 彼は記憶を取り戻すきっかけを見つけるべく、街のあちこちを歩き回っていたという。しかし成果は全くなく、再度皐に助けを求めるため、玄関に張り込んでいた。
「まだ怒ってる?」
 様子をうかがうトワの言葉に盛大にため息を吐き、「怒ってない」と隣を歩く彼に目を向けた。
 彼を見捨てれば、今後自分は拭いきれないもやもやを抱え続けることになる。誰からも認識されず、記憶を失ったまま、いつまでも現世をさまようトワの姿を頭に描きながら。謂れがなくとも捨てきれない罪悪感を抱きつつ、自責の念にかられながら。
「しゃあなしだからね」
 皐にじろりと睨まれ、トワがきょとんと目を丸くする。
「このままじゃ後味悪すぎるから、ほんのちょっと協力するだけだから。成仏か何か知らないけど、あんたもさっさと解決策探してよ」
 こんな異様なものとはさっさと問題解決して縁を切るに限る。そう自分を宥めた皐を見て、トワはいよいよ嬉しそうに顔に笑みを浮かべた。
「ほんと? やった! 全面協力してくれるってことだよね」
「全面とは言ってない」
 その言葉が聞こえなかったのか、トワは皐の前に回り込み両手を握ってぶんぶんと上下に振った。温かな手の感触、込められた力。「ありがと!」という言葉に返事をせず、彼の手を解いてさっさと歩き出す。希望に満ちた見えざる少年は、その背にご機嫌でついていった。
 まず、トワは本当に幽霊なのだろうか。皐は全く効果を成さなかった部屋の盛り塩を処分し、自分の手を握った彼の体温を思い出す。あれは全く死人の温度ではなかった。それとも、死人ではなく幽霊であるからこそ、解釈が異なるのだろうか。
 彼は壁や扉をすり抜けることができない代わりに、手に物を持つことができる。皐以外の側からすれば、彼が手に持った物が勝手に宙に浮いているように見えるに違いない。姿が見えず声が聞こえないだけで、彼の肉体は体温と共にそこにあるのと同じだった。
 だが三日が経つ頃には、彼はものを食べたり水を飲んだりする必要がないことが判明した。曰く、全く腹が減らず喉も渇かないが、眠りさえすれば体力に支障はないらしい。飲食しないのだからトイレに行く必要もなく、それを鑑みるとただの見えざる人間ではない気がする。
「ねえ、本当に何も思い出せないの?」
 皐の言葉にトワは腕を組んでうんうん唸ったが、いくら唸ったところで記憶が戻ってくる気配はなかった。
 自分の住んでいた場所はおろか、家族も友人も、生活のひとかけらも思い出せないという。トワの頭の中ではこれまでの過去がまっさらな空白に埋め尽くされている。だが、彼がこの歳まで成長するにはそれなりの年月が必要であり、そこには確かに過ぎ去った時間や経験が存在するはずだった。
「死んで記憶喪失になったのかな。それとも記憶喪失になってから死んだのかな」
 彼は首を傾げるが、それは今では大した問題ではないように思えた。記憶さえあれば何らかの解決策は見出せそうだったが、それすらも今は不可能だ。
「仮に幽霊だとしたら、成仏すれば解決でしょ」
「もうちょっと遊びたいなあ」
「わがまま言うな」
 皐は椅子に腰掛け、スマートフォンで「除霊 方法」と検索をかける。足元ではトワが床に座ってクッションを軽く放り投げて遊んでいる。
 誰のためだよと内心で突っ込みながら検索結果を眺めるが、役に立ちそうな情報は見当たらない。部屋の空気を入れ替えるだとか、まさに盛り塩をするだとか。試しに一度外でトワに塩をぶっかけてみたが、目に入ったと騒ぎ立てるだけで効果はなかった。
 これまで幽霊に興味をもたれても、お守りを握って眠り、数日放置している間にその気配は消えていた。視えるのと霊を祓えるのとでは全く問題が異なる。
 途方に暮れながら朝食を食べる皐に、母が嫌そうに顔をしかめて声を掛けた。
「皐も気をつけなさいよ。世の中何が起こるか分からないんだから」
 何の話だと目を向けると、テレビのローカル番組で強盗殺人事件のニュースが報じられていた。カメラが回っているのは皐も見覚えがある街角で、確か一駅向こうにある小学校の近くだ。保護者が子どもたちの集団登校に付き添っている様子が画面に映っている。
 一人暮らしの高齢女性が自宅で殺害されたという。宅配の配達員がドアと床の隙間から血が流れているのに気が付いて通報したが、既に女性は殺され室内は荒らされていた。金銭目的の強盗殺人だと推測され、まだ犯人は捕まっておらず目星もついていない。確かに恐ろしい事件だ。
「大丈夫だよ。うちはこんなお金持ちオーラ出してないし」
「あんた、それお父さんの前で言っちゃだめだからね」
「冗談ですよ」
「愉快犯ってのもあるんだから。お金目的の強盗ばかりじゃないのよ」
 画面の広々とした邸宅を見てコメントする皐に、母はゴミ袋の口をしめ、「ついでに出してきて」と玄関に置いた。
 学校でも強盗殺人事件の発生を踏まえ、全校集会で注意喚起が成された。部活動はしばらく五時半までの活動とし、その際はなるだけ一人では帰宅するなという。
「まさかこんな近くで強盗事件だなんてねー」
 プチトマトを頬張る陽葵はそれこそリスみたいだ。
「世間は恐いもんだね」
 陽葵は週に二度しか活動のない文芸部に所属し、皐の茶道部は週にたった一度の稼働だ。それさえも制限されれば、ほとんどそれらしい活動はできなくなる。
 だが、帰宅部よりは退屈しのぎになるだろうと加入した部なので、皐に不満はなかった。それにもうすぐ夏休みだ。
「ねえ、陽葵。知ってれば教えてほしいんだけど」
「知ってればね」
「幽霊の除霊方法って何がある?」
 たちまち彼女は眉をきゅっと寄せて嫌な顔を見せた。
「皐、知らないとは言わせないよ。うちが幽霊とか大の苦手ってこと」
「ごめんごめん、ちょっと困っててさ」
「困ってるってどういうこと。それってつまり……」
 皐の周りに何かを探して陽葵がきょろきょろと視線を動かすが、残念ながらトワはそこにはいない。彼は今ごろ興味津々で校内を自由に散策しているはずだ。
「違うって。知り合いに相談されてさ。私、たまに見えるけど祓うことってできないじゃん? だから良い方法がないか調べてるだけ」
「勘弁してよ、そんなの知ってるはずないし」
 どさくさに紛れて、苦手な枝豆を皐の弁当箱に移した。それを食べてやって、皐は陽葵の機嫌を直す。
「専門家に聞けば。お寺か神社か知らないけど……お祓いやってくれるんじゃない?」
 彼女はそう言うが、当然皐もその方法は考えた。だが、お祓いを受けるには当然お金がかかるだろうし、それはもちろん皐の自費になる。何が悲しくて無関係の幽霊のためにお金を払わなくてはならないのか。
「できればお金使いたくないらしくて」
「そんなにかかるの」
「分かんないけど……」
「お祓い行って解決するんなら仕方なくない?」
 陽葵の言葉に反論できなかった。
 彼女の言う通り、本気で困っているならば、お金がかかったとしても方法を試してみるべきなのだ。トワのためにいったい自分がいくらまで費用をかけられるか、頭の中で計算する。協力は自分が決めたこととはいえ、なぜ自分がこんな目にと未だに考えてしまう。本当についていない。
「それよか、夏休みの予定ってある?」
 陽葵が意図的に会話の方向転換を図るのに、皐は脳内に広がるトワへの不満を打ち切った。
「夏休みねえ」
「高校初の夏休みじゃん。皐はどっか行くのかと思って」
「何も考えてないな。そういう陽葵は?」
「うちも今のとこは特にね。皐が出かけるなら乗っかろうかって」
 そうだ、もうすぐ高校生になって初めての夏休みが始まる。一週間の夏期補習があるとはいえ、人生で特別なものにすべき時期に間違いない。だが悲しいかな、青春を輝かせる予定は今のところ皐には入っておらず、あるといえば幽霊らしきものに協力するという目的だけだった。
「じゃあ、陽葵にも予定があったら乗っからせてよ」
「いいけど、予定とか考えるの面倒くさくて」
 けろっとして言い放つ陽葵の素直さは、中学時代と変わりない。ちょこんと小柄で庇護欲をかきたてられる見た目をしていながら、時たましれっと毒を吐く。あくまで悪気はなく、彼女自身もボーダーラインを超えないように配慮しているが、外見と台詞が乖離している印象を受ける。
 だがそれは、勝手な押しつけに違いない。気弱で丁寧な物腰を期待し、実際に接して幻滅するのは自由だが、陽葵に責任は一切ない。
 自分勝手なイメージを求められ、あいつは腹黒だと陰口を叩かれることに彼女は辟易している。その犯人は女子ではなく、男子生徒が主だった。都合の良い性格をイメージし恋心を抱き、実際との差異にがっかりする。それだけならまだ良いが、周囲に悪口をこぼすのはいただけない。
 だが、彼らの悪意に負けるほど陽葵は弱い女子ではなく、自分の軸を大事にしている姿が皐の目には好ましく映る。この本当の良さが分からない男子に、陽葵は決してなびかないだろう。
 たわいない会話で昼休みは締めくくられた。一日の授業が終わり、活動を休止する部活動が増えたおかげで、放課後の玄関は普段より多くの生徒で賑わっている。トワは彼らとぶつからないよう、校門のそばで待っていた。
「なんか良い方法見つかった?」
「あんたちょっと他人事過ぎない」
 学校で見つけた面白いものを語り続けるトワと帰宅する。協力すると言った手前、あと何日こいつと行動を共にしなければならないのか。自室に入りクーラーを稼働させるや否や、一刻も早く問題解決すべく、ベッドへ身体をうつ伏せに投げ出してスマートフォンに指を走らせた。画面を覗き込もうとするトワを「暑い」と遠ざけつつ、「除霊 神社 費用」と意を決して検索欄に打ち込んだ。
 思わず唸ってしまう。払えなくはないが、決して安くもない。五千円から一万円は、単なる女子高生である皐が易々と出せる金額ではなかった。五千円あればハードカバーの本も買えるし、お洒落なカフェでパフェも食べられる、交通費に変えて趣味のカメラ撮影に遠出をすることだってできる。月に四千円を両親から貰っているが、せっかくの貯金を崩さねばならない。
「どう? どう?」
 しかしこの鬱陶しいやつがいなくなるなら、一度で済むならば。懸命にポジティブ思考に努め、ベッドに腰掛けるトワをじろりと睨み上げた。
「払ってあげるから、絶対に成仏してよ。これで無理だとか言ったら、マジで許さんからね」
「うーん、頑張る」
 信用ならねえと呟きつつ、皐は藁にも縋る思いで近所の神社の検索を始めた。
 日曜日、皐は午前十時にとある神社の鳥居をくぐった。自宅の最寄駅から三駅離れた神社の境内は広々として、既に参拝客の姿が目に入る。はらはらと木の葉を零す木々が影を作り、夏の日差しを遮って心地よい風をも感じさせてくれる。
 手水舎で手を清め、受付で五千円を納める。紙でできた襷を受け取り首にかけた。じきに始まるということで拝殿に通される。並んだ椅子には既に五、六名が着席しており、皐は内心で驚いた。自身のリサーチ不足ではあるが、祈祷は一人一人対面で行うものだと思っていた。
 端の席に浅く腰掛けると、トワが勝手に隣に座り、きょろきょろと辺りを見回す。古いが清潔な板敷の拝殿は、不用意に声や物音を立ててはいけない厳かな雰囲気に満ちていた。
「ねえ、これから何が起きんの?」
 周囲に聞こえないのをいいことにトワが口を開くが、皐にもそんなことは分からない。
 黙って無視していると、烏帽子をかぶり、紫の狩衣に青いズボンのような差袴を身にまとった神主が姿を現した。これより祈祷を始めますとの言葉を告げると、ドンと大きな音が拝殿に響き渡り、皐は思わず肩をびくんと震わせる。隣にいるトワも目を丸くしている。
 太鼓がドンドンと鳴らされ、祈祷が始まった。
 祓詩の後に、神主が棒の先に雷型の白い紙がふさふさと茂る大幣を皐たちの方に振る。腕が左右に動く度にざっざっと紙の擦れる音が響き、テレビでしか見たことのない光景に、皐は首を下に向けつつ、ちらちらと様子をうかがってしまう。これはいけるかもと期待を高める横で、「あれ美味しそうだなあ」とトワがお供え物を眺めて恨めしそうに呟くので、その足を軽く踏んづけてやった。
 祝詞が唱えられ、皐も二礼二拍手一礼でしっかりと願いを込める。悪霊退散。平穏祈願。どうかこの厄介者が成仏しますように。
「なんかすごい迫力だったね! あのお供え物ってさ、捨てちゃうのかな? 走ってくるから、一個ぐらい貰ってきてもいい?」
 周囲の人々が晴れ晴れとした表情で帰路につく中、皐は重たい気持ちで来たばかりの鳥居をくぐった。トワにご祈祷は何一つ効果がなかったらしく、むしろ初めての光景に興奮して目を輝かせ喋り続けている。
「そんで、これからどこ行くの? せっかくだし、遊びに行こーよ」
 怒りに任せて皐はその脇腹をパンチしてやった。五千円の価値を持つこぶしに、トワは痛いと大袈裟な声を上げた。
「あんたのせいで五千円が無駄になったじゃない!」
「そう言われましても」
「もー、この悪霊! さっさと成仏するなりなんなりしてよ!」
「まあまあ、落ち着いて」
「うっさいばーか!」
 悪態をつきながら途方に暮れた気持ちになる。すれ違った人が暴言を聞いて振り向いても、今は全く気にならない。
 正装として日曜日なのに制服を着て歩いている自分が馬鹿馬鹿しく、それを超えて虚しくなる気持ちをなんとか収め、考える端からやはり進退窮まっていることを知る。こいつは幽霊ではないのかもしれない、又は幽霊であっても神社の祈祷が効かない類の悪霊だ。
「むしろあんたを川に突き落とせば、幽霊かどうか分かるんじゃない。幽霊なら死なないでしょ」
「そんなひどい。幽霊じゃなかったらどうすんの」
「その時は仕方ない」
「鬼だなあ」
 表情豊かに眉を下げる彼の顔を、川に沈める代わりにもう一発殴ってやろうかと思う。
「喧嘩? 見えてないとはいえ往来ではやめなよ」
 立ち止まった皐の後ろから聞き覚えのない声がした。
 振り向くと、そこに立って自分たちを眺めているのは、やはり見知らぬ相手だった。
 同年代にしか見えないのに真っ白な髪を持ち、皐、そしてトワよりいくぶん背が高く、白いポロシャツにジーンズというラフな格好。やや切れ長の目を持つ、スマートな青年だ。
「……いま、なんて?」
 皐には見知らぬ彼の登場だけでなく、その口にした台詞が頭に引っかかった。彼は口元を緩めて苦笑いし、「お祓いは効かなかったみたいだ」と、まだ頭の見える神社の赤い鳥居に視線を向けた。
「見えるの、こいつが?」
 見えるよ、と彼はあっさりと返事をした。
 彼には皐が指さすトワの姿がはっきりと見えていた。トワはきょとんとして突如現れた彼の顔と皐の指を交互に見ている。
 皐以外に初めてトワの姿と声を認識できる存在は、リョウという青年だった。歳は皐より一つ上で、トワがただの人間ではないと気付き様子をうかがっていた。明らかにお祓いが失敗し、怒りと落胆をないまぜにした皐の様子を見過ごせず、声を掛けたそうだ。
 いい人がいるもんだと皐は内心で思いつつ、リョウの誘いで近くの川原に向かうことにした。歩道で見えざる者を含めて立ち話を続けるのも気が引ける。
「どうして、こいつが幽霊だって分かったの?」
 皐の台詞に、リョウはちらりとトワに視線を向けた。当の本人は、のほほんとした表情で機嫌よく歩いている。まるで能天気な幽霊だ。
「……何となく、かな」
「何となく?」
「皐は、分からなかったんだよね」
 なぜかトワが得意な表情をし、頭をひっぱたきたいのを我慢する。
「私は、周りの人が全員こいつを無視してるのに違和感があって、気付いたの」
 駅前で途方に暮れる少年は、皐には周囲と変わらぬ普通の人間にしか見えなかった。普通でないと分かっていれば、早々に退散していたのに。うっかり同情心を抱いた過去の自分が悔やまれる。
「本当に、周りの誰にも見えないのか」
 リョウはトワを見据える。怪訝な眼差しとは対照的に、トワはなぜか楽しげに両腕を広げてみせた。
「見えないし、聞こえないみたいだよ」
 その手をメガホンのように口元に当て、「わあっ」と大声を出してみせる。うるさいと皐が文句を言うが、全く気にする素振りを見せず、無邪気に笑ってリョウを見返した。
「ね、誰も振り返らないでしょ。だから、気付いてくれる人がいて嬉しいなあ。リョウって呼んでもいい? 僕のことはトワって呼んでいいから」
 人懐こい子犬のような笑顔を浮かべ、言葉の通り嬉しそうに彼を見上げる。
「……ああ」
 目を細めて微かに頷いたリョウに、トワはまるで幽霊とは思えない清々しさで笑ってみせた。
 閑静な住宅地を抜け、土手を下りて草地に据えられたベンチに座るまでに、リョウは自分も憑かれる体質で、これまで度々そうしたことがあったのだと言った。
「どうしても祓えない、しつこいやつもいるんだよ」
「うん、分かる!」
 興奮して頷く皐の隣で、トワが不満げに唇を突き出して眉根を寄せる。不服そうだが間違いなくこいつのことだ。
「その時はどうしたの?」
「偶然だけど、引越しがあったんだ。それで解放された」
 橋下のベンチに並び、「そっかあ」と皐は嘆息した。
 いくらトワが鬱陶しいといっても、実家住まいの高校生が勝手に引越すわけにはいかない。第一、こいつは引越し先にものこのことついてくるに決まっている。足を擦る下草を呑気に蹴っ飛ばすトワを他所に、皐はリョウに彼は記憶すら失くしているのだと告げた。
「全く? 覚えてるのは名前だけってことか」
 リョウの問いかけにトワは腕を組んでわざとらしく首をひねる。
「うーん、まあ、そういうこと。気が付いたら街の中にいて、そんで、誰も気付いてくれなかったんだ。そこに運良く皐が通りかかってくれたってこと」
「運悪く」
 すかさず訂正を入れる皐は、トワの腿をパシンと平手で叩く。
「実体もあるんだ。こういうのに、心当たりってある?」
「もうちょっとさあ、手加減ってものをさあ」
 ぶつくさ言いながら自分の足をさするトワに対し、リョウの眼差しが、次第に真剣味を帯びる。口元に片手を当てて何かを熱心に考えている姿に、皐も口を閉ざして続く台詞を待った。
 橋の陰ではあるが、大きな川を対岸から吹いてくる風は、あまり身体を冷やしてはくれない。午後に向かって今日も気温はぐんぐん上がるに違いない。
「……何か、覚えがあるの」
 堪らず小声で言うと、彼は表情を緩めて「いや」と否定した。
「不思議な現象もあるもんだなと思っただけだ。でもきっと、幽霊の類なんじゃないかと思う。普通の生き物が、声も姿も周囲から見えなくすることなんて不可能だ」
「でも、お祓いは効かなかったけど」
「あんなのは気持ちの問題だ。本物に効くとは限らないよ」
 いよいよお金を返せと言いたくなるのをぐっと堪える皐に、「乗り掛かった舟だ」とリョウは言う。
「成仏する方法がないか、考えるよ」
「ほんとに?」
 思わぬ協力者の出現に素っ頓狂な声が出る。数十分前に知り合ったばかりの人間が、トワの問題解決に協力してくれるなんて。
 でき過ぎな話に違和感を覚え、皐は手放しで喜ぶのを躊躇った。もしかして、もっと高額なお祓いを薦められたり、新興宗教にでも勧誘されたりするのではなかろうか。
「いや、他意はないよ。完璧に俺の良心」
 皐の躊躇を察し、リョウは白い歯を見せて軽く笑ってみせた。清涼な笑顔に、怪しい勧誘の気配は微塵も感じられない。
 いざとなれば、とっとと逃げ出せばいいだけの話だ。そう頭の中で決着をつけ、皐は隣のトワの後頭部に手を当てて、よろしくと自分と共に頭を下げさせた。
 トワとうだうだしていても、夏休みが無駄に終わってしまう。何にせよ、彼の声を聞いて姿を見る相手は貴重で、断る理由などあるはずがなかった。
 初めての高校生活、初めての学期は終業式をもって終わりを告げた。しかし夏休みという名を持ちながら、一週間は午前中に補習授業が行われ、半強制的なそれにほぼ全ての生徒が出席する。
 強盗殺人事件の犯人は未だ捕まっていないが、校内も次第に平穏を取り戻し、部活動も通常通り再開された。補習が終わると、昼食を終えた部活動生が運動場を駆け回り、吹奏楽部は楽器の音色を奏でる。皐の属する茶道部は週に一度の活動を早々に終えると、休暇明けまですることはない。
 陽葵と弁当を食べ終えると、皐は文芸部に向かう彼女と別れ、いそいそと校門を出た。
 門のそばではリョウとトワが待っていた。
「ごめん、遅くなって」
「遅いよー」
「誰のためだと思ってんの」
 ふざけるトワを皐が小突き、今日はどこへ向かうかを相談する。トワの問題を解決するには、幽霊としての成仏と並行し、記憶を取り戻す方法を探るべきだとリョウは提案した。彼の言う通り、トワが何者であるかが判明すれば、解決はぐっと近づくに違いない。
 そこであちこち出向いては、トワの記憶を刺激する景色や物がないかを探ることにしたのだ。
「よく注意しろよ。何か思い出すことがないか」
 リョウの言葉に、トワは大きく目を開いて瞼をしばたたかせる。道を歩きながら、塀の上を歩く猫や電信柱の番地、道端の自動販売機を順繰りに瞳に映して考えている。却って記憶が上書きされてしまわないか心配だ。
「ほら、こういうのとか」
リョウが足元に転がっている空き缶を軽く蹴り、赤いコーラの缶がころころと転がった。
「飲んだことはないか」
「覚えてないなあ」
 しかしトワの返事は相変わらずで、記憶を取り戻す様子はない。三人は市立図書館に向かった。
「すずしー」
 館内を満たす冷えた空気に思わず声が出る。汗が一気に引いていくのを感じながら、心霊に関する書籍の並ぶ本棚に向かい何冊かを選び、空いている丸テーブルの席に着いた。
 皐は横目でさっと周囲の様子をうかがい、知人の顔がないかを確かめる。幸い、見知った同級生の姿はなかった。
 利用者は少ないのでクレームは来ないだろう。六つある椅子を一つずつ空けてテーブルを占領し、皐とリョウはテーブルに広げた本のページをめくり、トワは席でつまらなさそうにしている。彼が探しものをすると、周囲の目には本のページが勝手にめくれる姿にしか映らない。いくら人が少ないとはいえ、そんな怪しい行動を取ることはできない。
「ねえ、散歩してきていい?」
 二人にしか聞こえないはずの声をひそめて、彼は皐に問いかけた。
「いいけど、夕方には戻ってきてよ、迷子になっても知らないからね。……その方がラッキーか」
「僕、記憶力はいいみたいだからね。はぐれたら家まで帰るよ」
「勝手に自分の家みたいに言うな」
 トワは暇つぶしがてら記憶を取り戻すべく、さっさと席を立って出口の方へ歩いていった。一人で手がかりを見つけてくれるなら、それに越したことはない。皐は手元の分厚い『心霊古今東西』に目を落とした。
 五百ページを超えるハードカバーの小難しい言い回しに、午前の授業を終えた頭が疲労と退屈を訴える。大体、見えざるものが見えてしまうのも体質のせいで、好きで見聞きしているわけではないのだ。
 興味もない本は目が滑り、同じところを何度も辿る羽目になる。その滑った目線で、一つ空けた席に着くリョウの様子をうかがった。彼は鋭く見える眼差しを手元の文字に落としている。
 引き締まった体躯に、染めたところでここまで見事な色合いは成せないだろう白い髪。彼は街の寂れた市立図書館には、まるでそぐわない外見と雰囲気を持っていた。
 ふとリョウが顔を上げたので、皐は咄嗟に視線を自分の本に落とす。どこまで読んでいたかなど記憶の彼方で、あたふたと文字の羅列を目で追う彼女にリョウが声を掛けた。
「休憩する?」
 何でもない台詞に救われた気持ちになり、皐は慌てて顔を上げて賛成した。
 並んで図書館の玄関横にある休憩スペースに向かい、自動販売機で缶コーヒーを買う。ベンチに座って飲みながら、トワがいてくれたらと、彼に出会ってから初めて思った。
 二人きりで何を話せばいいのか分からない。そこまで人見知りでも臆病でもないはずなのに、頭の中からすっかり余裕が消え去り、自分が緊張していることを知る。
「何か手がかりは見つかった?」
「ううん。……何も」
 そっちはと尋ねると、彼も今のところはと否定した。
 缶が傾き喉仏が動く。自分と一つしか歳は違わないはずなのに、彼は笑わなければ随分と大人っぽい表情を見せる。恐らく、自分の及ばない辛苦を超えてきた人なのだろうと皐は勝手な想像をした。そう思ってしまうほど、彼は大人びた雰囲気を帯び、だからこそ笑顔がいっそう少年らしさを醸し出す。
 そういえば、この人は学校に行っていないのだろうか。十七歳なら、高校に通っていてもおかしくないし、そうでなければ働いているのか。
 何度か顔を合わせているが、彼のことは名前しか知らないといっても過言ではない。
「その……本当に、こんなことに付き合わせていいの」
「何が」
「いや、だって、そっちも忙しいだろうし。あんな幽霊もどきのために時間費やすなんて、時間がもったいないっていうか……」
 遠回しな台詞の意味を解し、彼は問題ないと苦笑した。
「いろいろあって。でも時間だけはあるんだ。気にすんな」
 そのいろいろを話すほど仲良くはないということだ。ほんのりがっかりしながら、落胆を押し殺して首を振る。
 同時に自分が落胆を覚えていることが何やら恥ずかしくなる。まだ片手で数えるほどしか会っていないのに、根掘り葉掘り家庭の事情を聞くのは失礼だろう。
「そっちも、よく付き合ってやってるな」
「仕方なしだけどね。見えちゃったし」
 無意識に制服のスカートの裾を伸ばす。返事をしながら、同級生が通りかかったらどうしようと、きょろきょろしたくなるのを我慢する。
「見捨てても後味悪いし」
「でも、他人だよな」
「そうだけど……」
 優しいなとか、お人好しだとかは言われたくない。皐にとってそれらは褒め言葉ではなく、お節介という自分の欠点を指摘する言葉なのだ。
 リョウは少し黙ってコーヒーを一口飲んだ後、「あいつは幸せもんだ」と呟いた。
 あいつという単語がトワのことを指すのに、皐は微かに頬を綻ばせた。無意識とはいえ、彼が自分の聞きたくない言葉を口にしなかったのが、どうしようもなく嬉しかった。
 それから少しして、退屈しきったトワが戻ってきた。
 帰り道、リョウと別れてトワと歩く皐は、ふと顔を上げて立ち止まった。淡い橙に染まる西の空に、さっと刷毛ではいたような薄い雲がかかっている。迫る夜とのコントラストが美しい夏の空だ。
 スマートフォンを向けてシャッターを切る。
 夕暮れの空を切り取ると、試しに隣にいるトワにレンズを向けてみた。
「なになに? 写真?」
 声はするが、彼の姿は見えない。手を下ろすと、子どもじみたピースをするトワがいる。しかしそこにスマートフォンの画面を挟むと、途端に彼は姿を消す。取りあえずシャッターを切ってみた。
「カメラにも映らないんだ」
 写真には、変哲のない夕暮れの道だけが写っている。皐の言葉にトワは不服そうな顔をした。
「これ、壊れてるんじゃない?」
「失礼な。壊れてなんかない」
 画面を操作し、先ほど撮影した夕焼け空の写真を見せた。指でなぞると、それ以前に撮った写真が次々とスライドしていく。あくびをする野良猫、雨の日の水たまり、友人と訪れたカフェのケーキ。
「すごい、いっぱい写真がある。……このケーキ、美味しそうだなあ」
「食べられないくせに」
「写真撮るの好きなの?」
 トワがこちらを見て、「まあ」と投げやりに皐は返事をした。家に帰ればお気に入りのデジカメもあるが、何だか趣味を説明するのが気恥ずかしい。
「観察してるだけだけどね」
 親切だと言われる所以は、無意識にクラスや周囲を観察する気質のせいもある。相手の動きを眺めているうちに、いつもと違う点に気が付き、それを放っておけなくてお節介を焼いてしまうのだ。
「だから最初に僕を見つけてくれたんだね」
 つまりはそういうことになる。駅前で途方に暮れるトワを見つけたのも、この性質のせいだろう。
「ねえ、僕にも写真撮らせてよ」
「だめ。あんたが持ったらスマホが浮いて見えるでしょ」
「けち」
 まるで子どもじみた仕草で唇を尖らせるトワに構わず歩き出した。西日が強く背中から差し、皐の影が前方に長く伸びる。とことこついてくるトワの影はない。
「……いいなあ。皐もリョウも、ジュースが飲めて」
 黙っていられない性分のトワの台詞に、皐は思わず振り向いた。先ほどの図書館で缶コーヒーを飲む自分とリョウの姿が頭にひらめいた。
「見てたの?」
「うろうろしてたら、窓から二人が見えたよ」
 図書館の休憩スペースでリョウと缶を手にする場面を、トワは見かけていたという。
「僕も交ざりたかったけど、羨ましいだけだから、行かなかったんだ」
 思い出すと急に皐の中に恥ずかしさが湧いた。あの緊張した自分の姿をトワに見られていた。このふざけた能天気な幽霊もどきに。
「何の話してたの? 皐、何だか変な顔してたよ」
「なんでもない」
「でも」
「なんでもないってば!」
 つい声を大きくすると、トワは驚いて目を丸くした。なぜだか心拍数が急上昇し、皐は必死にそれを悟られないようにする。
「……コーヒーが苦かっただけ」
 我ながら下手くそな言い訳に、トワは「なーんだ」と気の抜けた返事をした。
「コーヒー飲めないんだ。子どもだなあ」
「あんたが言うな」
 へらへら笑うトワにそっぽを向いて、皐は足を速めた。顔が多少赤くなっていても、夕暮れが隠してくれるのが幸いだ。更に長く伸びる影を、ずんずんと踏みつけていった。
 終業式から一週間、夏期補習最後の日の放課後に、皐は約束通り陽葵とカラオケボックスにいた。やや薄暗く、テーブルと二人掛けのソファーが二つでいっぱいの部屋で、壁掛けテレビが煌々と光を放っている。曲のリズムに合わせて再生機器がカラフルに光り、ひと昔もふた昔も時代を感じさせる映像が画面に流れる。
 今日は無理やりトワを引き剥がしてやって来た。カラオケとやらに興味津々の模様だったが、断固として拒絶する皐に渋々と引き下がり、今ごろは散歩か昼寝でもしているだろう。開放感から皐はマイクを握り思い切り声を出した。
「ふへー、疲れた」
 交替で歌い続け、互いの十八番や好みの曲をひとしきり歌い終わった頃、陽葵がようやくマイクを置いた。彼女がフリードリンクのアイスティーを注ぎに行ってくれている間、皐はもう一曲歌った。
「絶好調じゃん、皐。外まで丸聞こえだよ」
「しゃーないよ。別に誰が歌ってるかなんて分かんないし」
「確かに」
 足でドアを閉める陽葵から、皐は礼を言ってグラスを受け取る。味の薄いミルクティーで喉を潤しつつ、塩辛いフライドポテトを各々つまむ。夏期補習の終わった開放感からか、陽葵の瞳もいつもより煌いている。
 その煌きがこちらを向いて、にやりと細められた。その顔に、彼女にしては珍しい、得体の知れない笑みが浮かぶ。
「聞いたよ、皐」
「何が?」
「またまたあ。誤魔化しが下手なんだから」
「だから、なにがよ」
 塩味になった指先をお手拭きで拭う皐のローファーを、陽葵は自分の足でちょいちょいとつついた。
「ゆーちゃんが言ってた。皐、こないだ市立図書館にいたでしょ」
 思わず手が止まる。その隙を見逃さず、陽葵はゆーちゃんという共通の友人が目撃した光景を語る。それはまさしく、図書館の休憩スペースでリョウと缶コーヒーを飲んでいた時のことだった。
「いや、絶対勘違いしてるけどね、陽葵」
「何が何が? まだうち何も言ってないけど。心当たりあるんじゃーん」
「だって、なんていうかただの知り合いだし」
「二人きりで図書館に行く知り合い? 皐にそんな男の子いたっけ。うちの高校じゃないよね、どこの学校の人?」
 完全に陽葵やゆーちゃんは勘違いを起こしている。皐が他校の男子と付き合っているか、その手前であると。
「それも知らない、ほんとーだってば。私あの人のこと何にも知らないし」
「嘘つくなよー。だから誤魔化しが下手なんだって」
「信じてよ、本当だってば」
「じゃあどこで出会ったの?」
 見えない陽葵にトワのことを話すわけにもいかないし、幽霊嫌いの彼女の機嫌を損ねるだけだ。仕方なく、川原で散歩中にと言葉を濁すと、陽葵は更に質問を重ねてくる。誓ってただの知り合いで、断じて付き合ってなどいないと、皐は幾度も繰り返さなければならなかった。
「ふーん、じゃあ本当に彼氏とかじゃないんだ」
「だから本当なの!」
 強調しつつ、心の中にほんの微か、残念な気持ちが浮かぶ。うんといえる立場なら、自分の心は喜びを感じるかもしれない。だが陽葵に弁明することを優先し、その感情には気付かないふりをした。
「そっかあ。……まあよかった、のかな」
 咥えたポテトを行儀悪く上下に振りつつ宙を見つめる陽葵は、細い指先でそれを口の中に押し込んだ。
「しょーじき、嫉妬しちゃった。それに、全然そんな素振りなかったんだもん。騙されてる気がしてさあ」
「騙すも何もそういう関係じゃないんだから、素振りなんてないし」
「そっかあ」
 彼女は残念そうな、それでいて安堵したかのような複雑な表情を見せた。
「羨ましいって思いながら、けっこう悲しかった。もし彼氏ができたら、うちにさっさと教えてくれるって思ってたもん。うちだったら、そっこー自慢してたし。皐が気遣って隠してるんだとしたら、他人行儀すぎるし」
 こういうところが好きで、皐は陽葵と一緒にいる。嫉妬も悲しみも口にして、正直な気持ちを隠さず打ち明けてくれる。それが自分への期待や信頼を軸にしているなら尚更だ。
「そんなの言うに決まってるじゃん。私だって、もし彼氏ができたら一番に陽葵に言うよ。誰よりも先に」
「マジ? 約束だからね」
 彼女は皐の台詞に口角を上げて笑う。
「でも皐が一歩リードしてるんだよなあ」
「だからあの人は違うって」
「まあ確かに、ゆーちゃんの言う通りの人なら、皐がごにょごにょしてる間に、さっさといい女に掻っ攫われるだろうね」
「しょせん私は有象無象ですよ」
 そう言いながら皐も陽葵につられて笑ってしまう。親友との絆を確かめ合うという、最高の夏休みの幕明けだと思った。
 カラオケボックスを出て陽葵と別れて角を曲がると、待ってましたとばかりにトワが駆け寄ってきた。皐が出てくるのをじっと待っていたらしい。
「うわ、びっくりした」
「失礼だなあ」
 むくれるトワのそばにはリョウの姿もある。偶然落ち合ったという二人は、周囲をぶらつきながら時間を潰していたそうだ。決して狭くない街で落ち合う偶然があるかと思うが、リョウは図書館に行く途中だったという。確かに学校からカラオケボックスに向かう真ん中に市立図書館はある。自分が遊んでいる間も調べようとしてくれた彼に、皐は少し申し訳なさを覚えた。
「気にすんなよ。それより、飯でも食いに行こうぜ」
 リョウは何も気に留めていない表情で、皐の肩を叩くとさっさと歩き出した。はっと顔を上げ、急いで彼を追う後ろをトワが慌ててついてくる。肩に彼の触れた感覚が、指の形に残っている気がする。
「二人だけ晩御飯とかずるいなあ」
 文句を言うトワに軽く肘鉄を食らわせて、自分の気持ちを落ち着けた。
 ファストフードのハンバーガー店は、制服やスーツ姿で賑わっていた。決してこの人とは何でもないんだと、必死に横目で周囲の気配を探りながら、皐はハンバーガーとポテトとコーラを注文する。リョウが十五個入りのナゲットを二箱頼んだのに仰天し、肉だ肉だとなぜかトワがはしゃいでいる。
 混み合う店内は二人掛けの席を一つ見つけるので精一杯で、座れただけでラッキーだった。当然席のないトワは、テーブルの横に立ち、大通りを見下ろせる二階の窓から外を眺めている。「僕だって足が疲れてるのにな」そう愚痴を垂れても席はない。
「トワを成仏させられるかもしれない」
 リョウの言葉に、皐はハンバーガーを齧ろうと開けた口から、思わず驚きの声を漏らした。
「さっき、図書館で見つけたんだ。呪文ってやつ」
 片方のパックのナゲットにバーベキューソース、もう片方のパックにはマスタードソースを使いながら、彼はちらりとトワを見た。身体を傾け、へその高さにある出窓のカウンターに無理に肘をつき、爪先立てた片足の足首をぐるぐる動かしている。
「……つまり、トワは幽霊なの」
「幽霊だったら効くおまじないだ。よく似た事例が載っていた。試してみる価値はある」
 明日試そうと彼は言った。早い方がいいだろうと。望んではいたものの、あまりに唐突で、皐はこくこくと頷くのがやっとだった。
「見て見て、お金が落ちてた!」
 自分が明日消えるとも知らず、トワが顔を輝かせてこちらを振り向く。手には五百円玉ほどの大きさをした金色のコインが載っていた。
「それ、お金じゃない。どっかのゲーセンのコインでしょ」
「じゃあ買い物できないってこと?」
 トワが残念そうに、手を差し出したリョウにコインを手渡した。それを眺める彼はふっと笑みをこぼし、貰ってもいいかとトワに問いかける。
「これも形見ってやつになるのかな」
 意味が分からないという顔をする彼は、明日には消えてしまうのかもしれない。
「皐さ、リョウのこと好きだよね」
「はあ?」
 自室で寝る仕度を整え、ベッドに座ってひと息ついた皐に、クッションを抱いたトワがにやつきながら言った。
「何それ、そんな目で見てたの?」
「そんなつもりなくても分かるよ」
 咄嗟に恥ずかしさが限界突破し、投げつけようと枕を握りしめる。だがトワは異様に運動神経が良く、あっさり避けられるだろうと予想して指を解いた。
「僕がいなくなったら、会う口実がなくなっちゃうね」
「そんなの、あんたが気にすることじゃない」
 言葉に力が入らず、一日後にトワがこの世から消え去ることを想像した。せいせいするし、ようやく平穏な夏休みを謳歌できるってものだ。予定を作って遠慮なく陽葵を誘える。海に行こうか、花火を見に行こうか、夏祭りに浴衣を着ようか。
「トワは、成仏したいの」
 楽しい想像とは裏腹に、皐の声は力が抜けてぽとんと床に落ちるようだった。
「そうだね、もっと遊んでてもいいけど、誰にも認識されないってつまんないんだよね。ご飯を食べる楽しみだってないし。だから、もし生まれ変わるなら早くしなきゃって」
 結局、彼の過去は一つも分からないままだった。彼の命はどこでどう消えたのか、本当は消えた状態ではないのか、それすらも判明しないまま、彼はいなくなるのかもしれない。この不安定で曖昧な状態を、トワも早く抜け出したいのだろう。
「最初に見つけてくれたのが、皐でよかったよ。ありがとう」
 最後まで無邪気な言葉に悪態さえつけず、皐は開きかけた口を閉じ、台詞を考えて、やっと声を発した。
「……そんなこと言って、神社の時みたいにやっぱり効かなかったじゃ、今度こそ許さないよ」
「確かに。しかも恥ずかしいかも」
 この騒がしさに自分が馴染み始めていることが意外で、そこに勿体ないような、もう少し一緒にいたいと思う気持ちがあるのは確かだった。
 でも、これでいい。どうか明日、トワが次の場所へ向かえますように。
 あのコインは、自分も欲しいと言えばよかったかもしれない。そんなことさえ思いながら、ただ願った。
 翌日の午後七時過ぎ、皐とトワはリョウに指定された公園に向かった。広々としたグラウンドやあらゆる遊具、鯉の泳ぐ池や雑木林を備えた、地元ではちょっと有名な場所だ。ヒグラシの声もいつしか聞こえなくなり、夕暮れの群青色に空は染まり、街灯が灯っている。公園を一周する舗装路を、タオルを首にかけた人がランニングし、サラリーマンが近道のため歩く。それらを横目に見ながら、皐たちは林の中に伸びる道を進んだ。
 木の葉の間から、向こうの街灯の光がちらちらとのぞく。幽霊でも出そうな気配に怯えたが、隣にいる存在を思い出すと怖くはなくなった。得体の知れなさでは負けてはいない。
「来たな」
 ぽっかり輝く満月の下に、リョウの髪はよく映えていた。月光を浴びて銀色にも輝いて見える。木々の途切れた場所に彼が真っ直ぐ立っている姿は、普段の生活には現れ得ない幻想的な光景に思えた。
 リョウはトワを次に導く可能性を持つ、呪いの言葉を知っている。
「もう未練はないな」
 トワは皐の顔を振り向き、次にリョウに視線を戻し、うんと頷いた。
「ちょっと怖いけど、大丈夫」
 ばいばいとこちらに手を振って、青い草に覆われた地面を踏みしめてリョウの元へ歩み出す。皐も顔の横に上げた片手を小さく左右に振ったが、何も言えなかった。伝えるべき言葉は、昨日の夜に全て言い尽くした。なのにまだもう少し足りない気がする。それを一つでも口にすれば、言葉が糸のように続いてしまいそうだから、ぎゅっと喉に抑え込む。
 十歩ほど歩いた先で、トワは立ち止まってリョウと向かい合う。互いの横顔が月明かりに照らされ、それはどちらも少し緊張気味のように皐には見えた。寝ぼけた鳥がどこかで鳴き、風に木々の葉がかさかさと音を立てた。
 リョウが軽く前傾し、トワの耳元に口を近づける。彼が発する言葉は皐には聞こえない。
 トワの横顔が、みるみる変貌していった。
 目を大きく見開き、頬を引きつらせ、顔は青ざめる。ぎこちない動作で首を動かし、顔を離したリョウを凝視する。リョウは見える側の頬を吊り上げ、笑っている。
 いったいリョウは、トワに何を伝えたのだろう。
 硬直し、自分の顔を幽霊でも見たかのように見つめるトワに、リョウの放つ台詞が今度は皐にも聞き取れた。
「思い出したか?」
 トワは彼に何かを言おうと口を開く。だが、その口は半分開いただけで、きちんと言葉を発することはできない。
 やっと絞り出せたのは、小さな呻き声だけだった。彼は立っていられないのか、地面に力なく膝をついた。
 明らかに様子がおかしい。皐は目の前の光景に混乱しながら、確かに異変を感じた。トワは消えることもなく、リョウの言葉に明らかに苦しんでいる。頭を垂れ、短い草を両手で握りしめる彼の荒い呼吸音が聞こえてくる。何かを思い出したのか。その記憶に彼は苦しんでいるのだろうか。
「トワ!」
 皐が叫んだタイミングは、リョウの手元が閃いたのと同時だった。
 月光を反射するナイフの刃先が、トワの鼻先をかすり宙をかく。
 間一髪で避けたトワはバランスを崩してよろめき、その姿をリョウがナイフを握ったまま見下ろしている。
「リョウ……」
「思い出したみたいだな」
 掠れた声で彼の名を口にしたトワは、頷くことさえできなかった。地面に両膝をついたまま、憔悴しきった顔をしている。
 いったいリョウは何を言って、トワは何を思い出したのか。そして、どうしてリョウはトワに切りかかったのか。
 何一つ理解が及ばない皐に、リョウがようやく視線を向けた。彼が初めて見せるのは、禍々しささえ感じる狂気じみた微笑だった。
「俺たちは、ここにいるべき人間じゃない。違う世界から来たんだ」
 唐突な言葉に、皐の脳内はいっそう混乱を極める。度々、この世ならざるものを見て、少なくとも理解はある方だと思っているが、別世界から来たと名乗る人間は初めてだ。
「世界を渡る時に、こいつは不完全な方法を使った」
 ちらりとトワを見下ろす。
「そのおかげで不完全な姿で現れ、記憶も欠落させたんだろう。自業自得だ。幽霊でもなんでもない」
「待って……もしかして、二人はもともと知り合いだったの?」
「俺はわざわざこいつのために世界を渡ったんだ」
 リョウは無造作に片足を上げ、トワの肩を蹴った。彼は抵抗もみせず、草の上に倒れ込む。のろのろと半身を起こしたものの返事さえしない。
 皐は必死に頭を働かせた。不完全な方法で自分たちの世界から去ったトワを、リョウは後から追いかけた。それはつまり。
「リョウは、トワを助けに来たってこと?」
 とてもそうは見えないが、振り絞った回答を口にした。
 リョウは忌々しそうに顔を歪め、吐き捨てるように返す。
「逆だ。俺はトワを殺しにきた」
 その目は不快を遥かに超えて憎悪を孕んでいる。冷たい炎が彼の中で燃えているのがはっきりと見て取れる。
「こいつは、俺たちにとっての重罪人だ。俺は裏切り者を殺しに来ただけだ」
 うらぎり、と皐は囁くように呟く。どう見ても純粋で無邪気で明るいトワが、重罪を犯した裏切り者だなんて信じられない。
 だがそのために、リョウは世界を渡ってまで彼を追いかけ、現にナイフで切りかかった。
「ぼくは……」
 土下座のような体勢でリョウを見上げ、トワがようやく小さな震え声を出す。唇が戦慄き、頬が微かに痙攣する。
 続く台詞を待たずにリョウが言葉を発すると、トワはぎゅっと唇を噛みしめて、声を出すことを断念した。呪文のようなそれは、誰かの名前だった。
 つらつらと並ぶ名に耐えられなくなったのか、トワはがっくりと首を折り、額を地面に押し付ける。全身が小刻みに震えているのが、皐の目にも分かる。
「ロクは、最後までおまえを信じていた。それなのに、おまえのせいで死んでいった」
「ごめんなさい」
 ロクというのは、恐らく彼らの仲間。そして、トワの裏切りのために死んだ仲間の一人なのだろう。謝罪の言葉を口からぼろぼろと零し、彼はただ謝り続ける。その身体を見下ろすリョウの目は冷ややかで、零れた一つもその心に届いていないのは確かだった。
「僕は……僕は、あの時……」
「言い訳なんざ聞きたくねえよ」
 顔を上げかけたトワの言葉を、リョウの声がすっぱりと両断した。
 彼は踏み込むと同時に素早くナイフを振り切り、トワは瞬時に転がり避ける。鮮血が宙にぱっと飛び散る。刃先は、トワが咄嗟にかざした腕を擦っていた。
 弾かれるように飛び退ったトワが、皐の方へ駆け出す。呆然と立ち尽くす皐の手を握り、彼は走るように促した。
「今すぐには殺してやらねえ」
 後ろからせせら笑う声が聞こえてくる。
「あっさり死ねると思うな、トワ。せいぜいおまえも苦しみ抜いて死ね」
 頬を流れる夜気の感触も、腕を伝うトワの血の熱も、手を引かれて走り続けるだけの皐には分からなかった。