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現代忍者は万能ゆえに異世界迷宮を一人でどこまでも深く潜る 1
著者:左兵衛佐
イラスト:yononaka
幕開け 現代忍者、異世界へ
俺の名前は音羽修、二十一歳、現代に生きる忍者だ。
いや、本当なんだって。
これには深い……、いや別に深くはないんだけど、一応ちゃんとした理由がある。
端的に言うと、俺の忍びの技術は祖父ちゃんから叩き込まれたものだ。
祖父ちゃんは三重県在住の伝統武術家で、室町時代から続く忍びの家の当主だった。
でも息子(俺の伯父さん)が跡を継ぐことを拒否したため、祖父ちゃんは当時途方に暮れていたそうだ。
そこにちょうど離婚した娘(俺の母)が、当時幼稚園児だった俺を連れて実家に帰ってきた。
まあそれで、祖父ちゃんは跡継ぎの候補として俺に目を付けたらしい。
それ以来、幼い俺が物事の判断がつかないのをいいことに、祖父ちゃんは日夜徹底的に忍びの技と知識を俺に叩き込んだ。
今考えるとこれ虐待だよね。
いやまあ、別に嫌じゃなかったんだけどさ。
凄い技を軽々とやってのける祖父ちゃんはとても格好よかったし、何でも知っている祖父ちゃんは俺の憧れだった。
それにどうも俺には才能があったらしい。
教わった技を翌日には使いこなしてみせる俺を見て、いつも厳しい表情をしている祖父ちゃんの顔に微かな笑みが浮かぶのが楽しかった。
教わった通りに完璧に薬草を調合してみせると、あれもこれもと本草学の書を取り寄せてくれるのが嬉しかった。
だから俺自身も忍びの技術を身に着けることに夢中になったし、高校卒業を前に祖父ちゃんから免許皆伝を授かるまでに上達できたんだ。
そして祖父ちゃんは、次代に技術をつなぐ使命を果たしたことに満足したのか、ある日急に目覚めることなく、気持ちよさそうに眠ったまま旅立った。
急にこの世界に一人だけの忍者として放り出された俺は、困惑した。
これから何をしたらいいんだろうか?
もし現代に戦国武将がいたら、身に着けた忍びの技術を売り込んで仕官するのに。
いないんだよね……、戦国武将。
母のすすめで何となく大学に進学した俺は、絵に描いたようなモラトリアム大学生として三年間を過ごした。
運動部やサークルに誘われたりもしたけど、そんなことより授業が終わったら山野に入って鍛錬を続けていた。
きっと俺は苛立っていたんだと思う。
ここではないどこか然るべきところで、この身に着けた技と知恵の全てを尽くして、生き残るためにギリギリの日々を送る。
どうして俺には、そんな身の置き所が無いんだ?
ほんの五百年前には、そんな身の置き所が当たり前にあったはずなのに。
この世界の方が間違っているように俺には思えて、苛立ちが募ってならなかった。
だから苛立ちを振り払うように、毎日力尽きるまで鍛錬で肉体を苛んだし、意識が消え去るまで瞑想に耽ったし、夜が白むまで本草学に没頭した。
そしてある日、唐突にそれは訪れた。
丸二昼夜の瞑想で忘我の境地にある俺と、俺以外の世界との境界が限りなくあいまいになったときだった。
ふと、ここではないどこかへと続く道があることに俺は気づいたんだ。
……ああ、これだったのか。
道理で、今いるところは違うような気がしていたんだ。
ずっと呼ばれていたのに、俺が鈍くて気づくことができないでいたんだ。
遅くなってすまなかった。
よし、行こう。
そう決意した途端に、俺はどこまでも無限に滑り落ちていくような、途方も無く速く移動しているような感覚に包まれる。
ああ、ずっと忘れていたけど……、もう顔も思い出せない父親に抱かれて……、春の日の滑り台を、滑ったときの……記憶……が。
………
……
…
目を開くとそこは、石壁に囲まれた仄暗い部屋だった。
その部屋は一辺が二十メートルほどはある正方形で、天井もやけに高くこれまた十メートルほどありそうだ。
電灯の類は見当たらないが、不思議なことに石材自体がほんのりとした光を発している。
つい先ほどまで締め切った暗い部屋で瞑想に耽っていたため、暗闇に目が慣れていることも幸いして足元に不自由はない。
ここはどこだろうか?
どこかは分からないけど、なぜかシックリ来るぞ。
何というか、俺の身の置き所が、ここにありそうに思えてならない。
はだしの足の裏に石畳のひんやりとした感触が伝わってくる。
シックリ来るのはいいけど、肌寒いしここに長居するのは体調に悪影響がありそうだ。
もちろん過酷な環境に耐えることは忍者の必須能力のひとつだが、だからと言って無闇に自身のコンディションを落とすのは良くない。
ちなみに俺はいま、スウェットパンツとTシャツの部屋着を着ているだけだ。
だって自室から急に来ちゃったからね。
コンディションと言えば腹も減っているぞ、だって二昼夜ぶっ続けで瞑想してたからね。
……まずは保温手段と食料のあてをつけないとだな。
俺は部屋の石壁に備わる扉に歩み寄った。
分厚い木材に鉄板を鋲で打ち付けた、武骨で頑丈そうな扉だ。
ドアノブではなくリング状の持ち手がついている。
俺は扉に手をかけ……ずに、眼を凝らして構造を確かめる。
音や臭いも何かのヒントになるかも知れないし、床に積もっている埃に何かの痕跡が残っているかも知れない。
たっぷり数分かけて観察を終えた俺は、つまり罠を警戒していたわけだがその心配は無さそうだと判断した。
ギィ……と古めかしい音をたてて扉が開く。
音をたてたくはなかったのだが、油を持っていないので回避方法がなかった。
扉の向こうには左右に延びる廊下が広がっているのが見えた。
廊下と言ってもこれまた広い、右方向は二十メートルほど行くと丁字路に、左方向は十メートル行くとまた扉に面している。
どうやら、一辺が十メートルほどの正方形をつなげて全てが構成される空間のようだな。
クラシックな3Dダンジョンゲームみたいだと言えば通じるだろうか。
……これは右に行くべきか。
右方向から風が流れているのを感じるから、もしかすると外部に通じているかも知れない。
この空間への興味も尽きないが、まずは生存可能性を高めることに集中しよう。
俺の持つ能力の全てを尽くしてなお死んでしまうことは構わないし、むしろそうなったら本望だとも思ってもいる。
しかしそのためには生存に向けて最善を尽くさないとダメだ。
その上で、力及ばずに死にたい。
いや落ち着け、何を考えてるんだ俺は。
フフフ、どうやら高揚してるらしいな。
忍者は冷静沈着でなければ。
……!
足音がする。
生体と石畳が触れる音に加えて、硬い爪がカリカリと微かな音をたてている。
獣……?
いや、二足歩行のリズムだ。
俺は丁字路の曲がり角に身を隠して、そっと左側の様子を窺う。
こちらに向かってくる存在は人間のような体格だが、しかし人ならざるものだと確信できた。
「……ギィ、グ」
人型の身体に犬のような頭部、ハロウィンの仮装というわけではあるまい。
周囲を警戒して頭の上でクルクルと動く耳も、むき出しの牙から滴る唾液も、ハリウッドの特殊効果でもあれほど精巧にはできないだろう。
犬頭の怪物は、身体は素っ裸だが右手には刃渡り五十センチメートルほどの剣を、左手に丸盾を備えている。
こちらは徒手空拳、危険な相手だ。
俺は息をひそめて、奇襲のタイミングを待つ。
あと五歩。
あと三歩。
あと一歩。
いま。
犬頭の怪物に側面から飛び掛かった俺は、怪物の右手首を取って引き伸ばすと同時に、左腕を回し込んで立ち絡みで肘を極める。
間髪容れず右腕を押し下げると、ビキリと音をたてて怪物の腕は折れ曲がった。
「グゥア!?」
突然の苦痛に怪物が怯む隙に、俺は剣の柄を怪物の右手ごと握ると、今度は逆に一気に押し上げる。
「ガブッ」
剣の切っ先が怪物の喉に喰い込み、怪物は全身をビクリと緊張させた。
俺は怪物の折れ曲がった腕を解放すると、左腕で怪物の犬頭を抱き締めるように引き寄せ、より深く怪物の喉に剣を押し込んでいく。
一瞬のこわばりを除けば、怪物からの抵抗は無い。
刀身の半ばまで送り込まれた剣は、怪物の首を貫通してうなじから切っ先を覗かせている。
ごぼり、と音をたてて怪物の口から血の泡が漏れると、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
ふぅ。
上手くいったか。
……こういうのでいいんだよ。
久しぶりに意識が覚醒的に傾く。
自身が意識を持っているということを自覚することすら、いったいどのくらいぶりの感覚だろうか思い出せない。
彼は長い、あまりにも長い時の中で意識を冷たく鈍らせ、半ば眠るような状態で静かに存在していたのだ。
さて、と彼は考える。
今度はどのような者が現れたのだろうか、自身の箱庭である迷宮の浅層に意識を向けてみる。
彼の意識を引き戻したからには、それなりに期待できる強者が現れたのではなかろうか?
……ほう。
これはいい。
着の身着のままの姿でこの世界に引き入れられる者たちは、身を護る武器を持ってやってくるかどうかでどうしても最初の動きに差が出てしまい、それは生存して再び彼の迷宮に挑んでくるようになる確率にも影響してしまうのだが……どうやら今度の来訪者は、そんなことを物ともしないようだ。
いいぞ。
これはいい。
一切の迷いも見せずに迷宮の魔物を屠るその様子。
どういうわけか真っすぐに地上への順路を進むその様子。
この者は確実に生存して、一度この迷宮から脱出を果たすことだろう。
そしてまたやって来る。そのように仕掛けているからな。
彼は自身がこの世界に流れ着いてきた当初には頻繁に得ていた感覚が、しかしやがて冷めてしまって鈍く錆びついた情動が、久方ぶりに動き出しているのを自覚していた。
それは高揚、興奮、熱望……渇望。
……過度な期待はするまい。
また落胆することになれば、あまりにも長い彼の時間がまた無為の念に蝕まれてしまうだろう。
それでも彼は期待してしまう。
せめて迷宮中層に仕込まれた、あの粋なメッセージだけでも誰かたどり着いてくれないものだろうか。
前回、あのメッセージの前室までたどり着いた者が現れたのはいつだったか。
この広大な迷宮のほんの折り返し地点でしかないあのメッセージすら、まだ一度たりとも誰の目にも触れていないのだ。
あれは彼の創造主たちの言葉であり、この迷宮の存在意義の一端でもあるというのに……。
彼は自身が随分と長く思考していることに気づく。
どうやら新たな期待の訪問者の活躍に当てられて興奮し、近年になく意識が強く覚醒したようである。
それ自体は素晴らしいことなのだが、おかげで長らく錆びついていた現状に対する不満や憤りまでもが、久方ぶりに首をもたげてきてしまった。
……そもそも、ただでさえ稀にしかやってこない来訪者の半分以上が、戦う意志も術も持たない弱者であることが非効率極まりないのだ。
おかげでかなりの割合の来訪者が、地上にたどり着くことすらなく迷宮の闇に溶け入ってしまう。
彼とてもっと強者ばかりを誘いたいのだが、しかし来訪者をこの世界に呼び寄せる力そのものは彼の物ではない。
そう、彼が来訪者を呼んでいるのではないのだ。
それどころか彼自身がこの世界の不思議な誘引力に誘われてやってきて、その場に根を張り迷宮を形成して後続の来訪者を待ち構えているに過ぎないのである。
それを思い出して、ふっと彼の不満も和らいだ。
この世界の力を寸借している分際で、あまり贅沢を言っても仕方あるまい。
自身の……いや、創造主の生み出したこの迷宮に定期的に来訪者があるだけでもありがたく思うべきであるし、事実最初はそう思っていたのだ。
創造主が生み出した数々の魔物と来訪者が闘い、数々の宝を手に取って、数々の罠に斃れる……ああ、素晴らしい。
とにかく、新たな来訪者のおかげでしばらくは目を覚ましていられそうだ。
一応、自室の扉に掲げた在室札も表向きに返しておこう……。
石畳に倒れ伏した犬頭の怪物は、事切れると同時に塵になって消えてしまった。
その場には怪物が所持していた盾と、ビー玉サイズの黒く光沢のある石が落ちているだけだ。
殺すと消えてしまうのか。
ではこいつを食料にすることはできないな。
俺は怪物から奪った剣を確かめる。
刃渡りは五十センチメートルほどの直剣で、拵えは片手握りだ。
刃こぼれがひどい上に全体に錆が浮いていて、しかも軸が歪んでいるし鍔も緩んでいる。
しかしこんなボロボロのなまくらでも、手元に武器があるのは心強い。
盾も拾うか……、上手く使えるかな?
俺は祖父ちゃんからあらゆる武器の扱いを叩き込まれたけど、実は盾を習ったことがない。
それでも、袖に鋼棒を仕込んで刃物を受け止める術は習得しているので、その延長線上と考えてなんとか対応していこう。
この黒い石はなんだろうか?
犬頭の怪物の身体から出てきたものなので、これも戦利品と言えるのかも知れない。
まあともかく拾っていこう。
この空間には小石一つ落ちていないので、投擲物として使うなら他に選択肢が無いしな。
俺は道が分岐するたびに、風を感じる方向を選択して進む。
罠を警戒しながらゆっくりと進んでいるので、老人の朝の散歩よりも緩慢な進行スピードだ。
……いるな。
目の前の曲がり角の先に気配を感じる。
それも今度は複数、三体だ。
風はそちらから流れてきているので、道筋を変えたくはないな。
よし、もう一度奇襲でいこう。
息を潜めて接近を待つ。
足音はカラリカラリと軽快で下駄履きのような音色だが、下駄の歯よりずっと複雑な構造体が石畳に触れているのが分かる。
リズムは二足歩行だが……、しかし呼吸音が全く聞こえないぞ。
いったい何者だ……?
人ならざる者にはもう驚かないが、生き物ですらないのかも知れん。
まあ、どんな怪物であれやるしかない。
気配があと一歩で曲がり角に差し掛かる。
今。
「しぃっ!」
俺は鋭く息を吐き出しながら、先頭の怪物の首をめがけて剣を水平内回しに斬りつける。
いわゆる左一文字斬りだ。
いきなり骨を断つ感触。
動く骸骨……!? いや、今は迷うな。
俺は頭骨を失った骸骨を蹴り飛ばして退け、その奥にいる別の骸骨に左手の盾をぶつける。
メキメキと音をたてて盾の縁が骸骨の肋骨を砕き、胸の半ばまでめり込んだ。
この骸骨どもは、どこまでやったら致命傷になるんだ? 全く判断がつかん。
仕方なく俺は飛び退って怪物どもから距離をとる。
首を斬った骸骨、塵になっていく。
胸を砕いた骸骨、塵になっていく。
唯一無事な骸骨は、こちらに剣を向けて駆け寄ってくるところだ。
俺は真っ向に振り下ろしてくる剣を躱し、骸骨の左小手を斬り飛ばして盾を喪失させる。
なにしろ盾を持たれているとやりづらいからな。
敵の左半身に対する太刀筋が制限されて、どの急所も狙いづらい。
さて、盾を奪ってしまえばあとは簡単だ。
こいつは剣をやたらに振り回すばかりで、撃ち込む隙はいくらでもあるぞ。
俺の振り下ろしで頭骨を唐竹に割り砕かれて、三体目の骸骨も塵に還った。
ふぅ。
こういうのもいるのか。
真っ白に古びた骸骨の化け物が、片手剣と丸盾を装備して徘徊しているとはな。
筋肉はもちろん腱も靱帯もない骸骨が、どうして剣を振り回せるのかは分からんが。
まあ、落ち着いていけば難しい相手ではないな。
今後はこういう生命体ですらない敵も想定しないといけないか。
骸骨が相手では、神経や血管を狙った技術は意味をなさないだろう。
いやそれどころか、人型でない敵の存在も覚悟しておこう。
それと盾の存在だ。
盾を持った相手と対峙することがこれほど面倒だとは、思いもよらなかった。
ここも要研究だな。
……面白い。
面白いぞ。
昨日までの俺が、何をしたらよいのか思い悩んでいたことが本当に馬鹿みたいだ。
やらなくてはいけないことだらけじゃないか。
ここは本当に化け物の巣窟だな。
最初に出くわした犬頭の怪物や、骸骨にはその後も何度も遭遇した。
他にも豚頭、いや全身豚なのだが二足歩行の怪物や、なんだかよく分からない泡立ったゼリー状の怪物も襲い掛かってきた。
戦闘を終えて少しでも移動を再開すると、あっという間に次の怪物の気配を感じるのだから、退屈する暇はない。
怪物どもは命を失うとすぐに塵になってしまうのだが、犬頭の怪物と骸骨が剣を残してくれるのが本当に助かるな。
剣はすぐに使い物にならなくなるので、たびたび入れ替えながら使っている。
謎の黒い小石も一応拾っているが、ポケットが膨らみすぎるのでそろそろ辛くなってきたぞ。
それから、奴らの持つ盾に対する対策も固まってきた。
対策の内容は単純で、まず一つ目は奇襲により盾を使わせる前に仕留めること。
二つ目は、決まって左手に盾を装備している連中の右側から攻撃を加えることだ。
俺は使い慣れない盾の使用を捨て、剣を両手に二本持って戦うスタイルに変更した。
右手には順手、左手には逆手で剣を握り、右手の攻撃で盾の反応を釣り出した後に左手の剣で仕留めるパターンが鉄板となりつつある。
本当は左手に握る方の剣はもっと軽い方が理想的なのだが、まあどちらも大脇差サイズなので扱えないこともない。
「ブギュゥ!」
右剣のけん制から一気に踏み込んで左剣で胴を薙ぎ、豚の化け物の最後の一匹を仕留める。
豚の怪物は急速に色を失い、塵と化していった。
豚の化け物は三匹で現れたが、例によって奇襲で一気に二匹まで仕留めてしまうので実質一対一みたいなものだ。
などと戦闘内容を振り返っていたときだった。
「む!?」
つい声が出てしまった。
これも油断と言えば油断なのだが、あまりに強い違和感が急に襲ってきたので止められなかった。
これまでに感じたことのない感覚が身体の奥から湧き上がってくる。
ついに変調を来してしまったか?
いや、不快な感覚ではない。
むしろ……、自分がより力強くなったような、身体の芯がよりしなやかになったような。
もう一つ気になることが目の前にあるが、それよりもまず自分の身体だ。
剣を振ってみたり、その場で跳躍してみたり、左右に素早くステップしてみる。
間違いない。
身体能力が向上している。
俺は毎日限界まで身体を動かしていたから、間違いようもない。
明らかにこれまでの人生で今が最高の身体出力だ。
これはマズいぞ。
いきなり身体の出力を高められては、技の精度が狂ってしまう。
負傷や疲労により自身の最高出力から下がる分には対応できるが、急に上がるなんてことは想定していない。
俺は現在の身体出力に慣れるために、普段の自己鍛錬をなぞってその場で運動を続けることにした。
小一時間ほど運動を続けただろうか。
身体の感覚はしっかり馴染んで、もうこれまでに近い動きができるだろう。
不思議なことに、先ほどまで次々と現れていた化け物とは遭遇していない。
まるで俺の準備ができるのを待ってくれているようで、不気味だ。
まあ、それはいいか。
俺にとって都合のいいことに文句を言う必要はない。
それよりも、目の前にある小一時間ほど保留していたブツを片付けよう。
宝箱だ。
いや、宝が入っているのかは知らんが、見た目は完璧に宝箱だ。
木製の長櫃が金属で縁取り補強されていて、天面がアーチを描いていて、やっぱり完璧に宝箱のイメージを捉えている。
運動しながらずっと考えていたが、やはり戦闘前にはあんなものはなかった。
豚の化け物を倒すや否や、急に出現したとしか考えられない。
無視してもいいのだが、どうにも気になるというか。
俺は今後この箱を避けて通れないような気がしている。
不思議な感覚だが、俺をここに誘った何者かがいるのだとしたら、その者の意思なのだろうか?
ともかく、取り組んでみよう。
とは言っても、針金一本持っていないのでできることは限られる。
外観の違和感、音、臭い、……臭い。
かすかに感じるニンニク臭。
こりゃ、ヒ素だな。
鍵穴から毒針を飛び出させて、開けようとした者に突き刺して毒を送り込む罠だ。
……いや、ヒ素はいいとしてもなぜ機械的構造まで分かるんだ?
どういうわけか、鍵穴の向こうにある小さな弩の姿まで思い浮かぶぞ。
そもそも、この宝箱に取り組もうと意識した瞬間からうなじがチリチリする感覚がして、罠の存在を確信していた。
これまた、俺の知らない何かが俺の身体に起きている。
これも把握していかないとだな。
本当にやることだらけだぞ。
鍵穴から射出された毒針が石壁に当たって、カツンと音をたてる。
不思議な第六感にも助けられて宝箱の罠を特定した俺は、後ろから蓋を開けるという対処方法で罠を回避することができた。
罠を解除しなくても、正面に立ちさえしなければ害はないからな。
さて宝箱の中身だが、何枚かの硬貨とこれは……巾着袋か?
小銭を入れるくらいの容量の袋だが、下げ紐も付いているしポケットがパンパンになりそうな現状では助かる。
俺はさっそくポケットを膨らませている謎小石を巾着袋に入れると、すぐに違和感に気づいた。
明らかに見た目の容量よりたくさん入るぞ?
スウェットパンツの両ポケットを膨らませていた小石を全部入れて、その上でこの巾着袋を片方のポケットに余裕で入れることができてしまう。
巾着袋を振ってみると音もしない。
なんとも不思議アイテムだが、これまたポケットの容量と静音性の維持に困っていた俺にとって都合がいい。
まあ深く考えたら負けだな。
だいたい、部屋で瞑想していたらこの空間に来たということ自体が不思議極まりないんだ。
都合のよいことは何でも受け入れていこう。
宝箱にあった硬貨も眺めてみるが、赤銅色で見たこともない種類の硬貨だ。
誰だか分からない女性の横顔がレリーフになっている。
この世界? の通貨だろうか。
確証はないのだが、日本というか地球とは違う世界に来ているだろうと思う。
だって地球にはあんな怪物がウロウロしていたりしないよね。
通貨があるということは経済もあるし、文明もあるのだろう。
なんとか文明との接触を図ってみたいところだ。
今のところ体調は悪くないが、飲まず食わずでは程なく行動不能になるだろうしな。
その後も怪物との戦いを繰り返しながら風の吹く方向を頼りに移動し続けた俺は、風に含まれる臭いが徐々に新鮮なものに変わりつつあることを感じていた。
これは外が近くなってきている気がするぞ。
この空間の外がどういう世界なのかは分からないが、なんとか安定して生存を維持できる環境を構築したい。
なにしろ、ここは楽しいからな。
やっぱりすぐに死んでしまうのは勿体ないという気分が湧いてきたぞ。
さて、そのためにはこの局面をどうするか……。
いま俺は、例によって通路の曲がり角で身を潜めている。
接近する気配を感じるのだが、これは奇襲を仕掛けてよいものかどうか……、なぜならばこれは人間の気配だ。
時折話し声も聞こえるぞ。
人数は……五人か、あるいは六人。
接触を試みるか?
この世界の情報や、あるいは水や食料などを交渉で得られるかも知れない。
……しかし、もし戦闘になったらどうする。
人間を殺すのか? それはこの世界で認められる行動なのか?
接触をするのは、どうにもリスクが高いような気がするな。
相手の人数が多いというのも具合が悪い。
よし、ここは隠れたままやり過ごそう。
俺は石壁のわずかな凹みや継ぎ目に指をかけ、腕の力だけで身体を持ち上げながら壁面をスルスルと登攀する。
もっとツルツルした壁だったらこうはいかなかっただろう。
曲がり角の天井に張り付く俺の眼下を、武装した男女の集団が通り過ぎていく。
前衛と後衛に分かれているな、機能的な戦闘集団に違いない。
前衛の三人は片手剣と小型の盾を備えた男が二人に、両手剣を携えた女が一人。
三人とも具足を身に着けていて、奇襲するにしても急所をよく吟味する必要がありそうだ。
後衛の三人は軽装だ。
裾の長い衣服を纏った男女が前衛に続き、最後尾は足音を感じさせない斥候風の女が一団の背後を警戒している。
気づかれるとしたらこの女だな。
キョロキョロと油断なく周囲を警戒していて、こちらがわずかな気配を漏らしただけで潜伏が露見してしまいそうだ。
俺は速やかに自己催眠に入った。
全身を石のように硬直させることで完全静止を実現する。
さらに呼吸も止めるが、気管を開きっぱなしにして外気と肺腑を平準化させることで、最低限の酸素交換を維持していく。
視覚情報を処理する脳活動だけを細々と続けながらも、それ以外の肉体の反応を極低下させて俺は石壁に溶け込み続けた。
「アニタ、どうしたの?」
「うん……いや、気のせいかも」
後衛の軽装女が最後尾の斥候女に話しかける。
気づかわしげに周囲を警戒していた斥候女だが、俺が完全に気配を消したので思い直したようだ。
「おいおい、アニタの警戒を晦ますような強敵がこんな浅層にいてたまるかよ。縁起でもねぇ」
「そうなんだけどさ……ううん、ゴメン。行こう」
前衛の男と軽口をかわしながら、斥候の女は警戒を解いた。
やがて一団は立ち去り、見えなくなった。
自己催眠を解除して床に降り立った俺は、一団が来た方向に目を向ける。
間違いない、もう間もなく外だ。
長い石階段が続き、上方から陽の光が注ぐのが見えた。
やはり地下空間だったのか、何となくそんな気はしていたんだよな。
このまま外に飛び出すと目が眩みすぎるな。
少し目を慣らしてから出るか。
「おい、あんた一人か? 他の仲間はどうした。壊滅したのか!?」
しまった。
地上から武装した男たちが降りてくるぞ。
向こうが階段の上方を占めていて、しかも光を背後に背負っている。
こんな不利な態勢に陥るとは不覚だ。
俺は両手の剣を構えて戦闘に備える。
「落ち着け! もう地上だ、助かったんだぞ!」
「おい、ウーゴ。あの兄ちゃんの格好を見ろよ。ありゃ新しい漂人じゃねぇか?」
武装した二人組は俺と距離を取りつつも、敵意のない姿勢をアピールしてくる。
すぐに信用するわけにはいかないが、情報が無さすぎて判断できん。
言葉は通じるみたいだが、よく分からん単語が飛び交っている。
漂人? 俺のことなのか?
「だれか漂人局に行ってこい!」
「ともかく落ち着いてくれ、俺たちは敵じゃねえ」
武装した二人はあくまでも敵意がないアピールを続けている。
「……もう少し、距離を取ってくれ」
俺が答えると、武装した二人は肩をすくめながら後ずさって距離を取った。
そろそろ目が慣れてきたので、俺も二人との距離に注意しながら地上に向けて足を踏み出す。
そこは、石造りの街並みだった。
背後の俺が登ってきた階段は、広場の中央に設けられた石碑の足元に口を開いていた。
あたりを見渡すと、二人のほかにも武装した兵士十人程が遠巻きにしてこちらを窺っている。
これほどたくさんの武装兵を相手に戦闘するのは得策じゃないな。
ここは腹を括って、この世界の人間とのやりとりを試みるしかない。
「ウーゴさん! 新しい漂人、見つかったって!」
声がする方を見ると、兵士の一人に連れられた女性がこちらに駆けて来るのが見えた。
年の頃は二十前後だろうか、手には何やら書類のようなものを持っている。
「エリカの嬢ちゃん、こっちだ。この兄ちゃんだよ」
「はぁ、はぁ、あとは私が引き継ぎます。ありがとうございました」
俺の目の前にやってきた女性は、肩で息をつきながらも兵士たちと何やらやりとりしている。
引き継ぐと言ったか? 彼女は俺に何かをする気なのか?
「ふぅ……、私は漂人局のエリカです。説明を行いますので、まずは漂人局へ来てください」
「俺はシュウだ。その漂人とか漂人局というのは、何だ?」
「それも漂人局で説明しますから、ともかく来てください」
俺が問いかけても、女性は聞く耳を持たずに俺を先導しようとする。
うーん、ついていってよいものか。
まあ、結局どう説明されようが俺には真偽の判断がつかんしな。
ひとまず付いていってみるか。
エリカに連れられてやってきたのは、石造りの大きな二階建て建造物だった。
一階にはカウンターと大きな倉庫があり、運送会社のような風情である。
俺は二階の応接ルームのような部屋に案内され、エリカと向かい合って座った。
周囲には武装した男女が数名いて、こちらを見ている。
……まあ、俺は怪物から奪った剣を抜き身のまま所持しているからな。
このくらい警戒される方が自然だろう。
「さて、色々と説明しますが、まずは一番大事なことを言います」
そう言うと、エリカは少し緊張した面持ちになった。
「私たちはあなたを召喚したりはしていません。あなたがこの世界に迷い込んできたのは、私たちとは無関係ですので、『勝手に呼びやがって』とか『生活を保障しろ』とか、そういうよくある苦情には応えられません」
なんだ、そんなことか。
「ああ、分かってる。俺は自分の意思で来たからな」
「そ、そうですか……。この説明を聞いて、そういう反応をする方は初めてです」
エリカと周囲の男女は面食らった表情をしている。
俺は何か変な受け答えをしたかな。
たぶん彼らは俺が暴れ出した場合に備えてここにいるんだろうな。
暴れる理由が特にないと思うんだが。
「えー、気を取り直して。あなたのように迷い込んできた方は『漂人』と呼ばれ、私たち漂人局が対応にあたっています」
ふむ、役所みたいな組織なのかな?
ということは、漂人はそれなりの数がこの世界にやってくるのだろうか。
「あなたがた漂人は普通の人間とは違って、迷宮から離れて生きることができません。定期的に迷宮の空気を吸わないと、身体が衰弱してやがて倒れてしまうのです」
迷宮てのは、俺が現れたあの地下空間のことでいいんだよな?
ふむふむ、そんな制約があるのか。
「それも何ら問題ない。そんな理由がなくても、俺は迷宮に行きたいからな」
「そ、そ、そうですか……。順応が早くて助かります」
周囲の男女がザワザワしている。
ちょっと静かにしてくれないかな?
「かつては路頭に迷う漂人が多かったそうです。先々代の王がこれを哀れに思し召して、あなたがた漂人の自立を助ける漂人局が創られました」
エリカの説明が続く。
なるほど。
生活できない流民が溢れないようにする、福祉政策ということか。
「迷宮探索者となるか、この迷宮都市で他の仕事をするか選べますが……。シュウさんは迷宮探索者を希望するということでよろしいですね?」
「ああ、それで構わん」
「わかりました! 専業探索者の方は貴重なので、とても助かります! では私がシュウさんの担当となりますので、定期的に漂人局に出頭して所在を報告してください」
俺の答えを聞いて、エリカはパッと表情を明るくしている。
しかし、それは面倒だな。
この世界の体制に無駄に楯突く気はないが、やたらと束縛されるのも面白くない。
「まあ出頭と言っても、迷宮探索者はどのみち漂人局へ頻繁に足を運ぶことになりますよ。魔石の換金は漂人局の専売となっておりますので」
エリカはそう言うと、俺たちの間にあるテーブルに黒い石を置いた。
「これは迷宮の魔物を斃すことで得られる魔石です。迷宮探索者は、主にこの魔石を漂人局に納入することで日々の稼ぎとするのです」
ふむ、魔物を斃して得られるというと、あの石か。
やっぱり拾い集めておいて正解だったな。
「規定により、ひと月の間は漂人局の宿舎をシュウさんに提供します。その間に訓練して、迷宮の魔物を斃せるようになってください。魔石を稼げるようになったら、漂人局への負債を返済してもらいます」
「返済というのは、どのくらいの魔石が必要なんだ?」
「魔石の等級にもよりますが……。それはシュウさんが訓練して、魔物を斃せるようになってからで大丈夫ですよ」
気が逸る俺をなだめるように、エリカは微笑みながらたしなめてくる。
現状でも結構斃していると思うが、まあいいか。
話の腰を折ることもないので、続きを聞こう。
「では次に、クラスの確認を行います」
「クラス?」
「はい、この世界の人間は誰しも、神の祝福であるクラスを持ちます。戦士のクラスであれば恩恵により武器の扱いが巧みになりますし、斥候のクラスであれば隠れた敵や罠の存在を感知できます。シュウさんに宿るクラスの種類を確かめますので、ついてきてください」
うーん、そりゃこの世界の住人の話じゃないのか?
俺にはクラスだの神の祝福だのは……いや待てよ、たしかに思い当たる節もあるな。
エリカに案内されて一階の広い倉庫のひとつに入ると、様々な武器類が壁に吊るされているのが見えた。
長さの異なる剣や槍、斧やら槌やらに加えて長柄の武器もたくさんある。
まるで俺の実家の道場のようで少し懐かしいな。
エリカに促されるままに種々の武器を手に取ってみるが、どれも手にシックリと馴染む。
振り回してみると鋭い風切り音がして、どの武器も不満なく扱うことができそうだ。
たしかに俺は幼少期からあらゆる武器の鍛錬をしてきたが、それに加えてクラスの恩恵とやらで、もう一段も二段も巧みさが加わっていることが自分でもわかる。
これも感覚を狂わせる原因になるので、じっくりと慣熟訓練を行いたいところだ。
「なるほど、これは戦士のクラスに間違いありませんね。探索者向きのクラスでよかったです!」
エリカは嬉しそうに笑みを浮かべているが、そうだろうか。
……たぶん、忍者じゃないかな? 俺のクラス。
「エリカ。斥候のクラスというのは、どうやって確かめるんだ?」
「えっ、もう戦士で間違いないと思いますけど……」
戸惑うエリカを促して斥候クラスの確認器具を用意させ、俺は練習用の罠が仕掛けられた宝箱を難なく開けてみせた。
これもやはり、不思議な第六感が働いているのを感じる。
「えっ? えっ? 戦士のクラスなのに、斥候の恩恵も?」
俺の能力を見て、エリカは混乱している。
……いやたぶん、忍者だと思うんだ。マジで。
それと、もう一個確かめたいことがある。
「とても不思議ですが……、でも武器も罠も扱えるというのは、とても素晴らしいことです!」
「エリカ、もう一つだ。薬を扱うクラスというのは存在するか?」
「えっ、それは薬師のクラスですが……。まさかそんなことまで……?」
エリカは半信半疑の様子で、瓶詰めの溶液を持ち出してくる。
それを手に取ると……、やはり分かるな。
「これは、毒消し薬だな? ポイズントードの毒腺から作られるものだ」
「えっ、どうして。まさか本当に薬師の恩恵を!?」
どうやら当たっているらしい。
この毒消し薬を手に取った瞬間に、なぜかポイズントードとかいう未知の魔物の情報も脳裏に浮かんできた。
それどころか、材料さえあればこの薬を再現できる確信がある。
まず間違いなくクラスとやらの恩恵に違いあるまい。
これで分かってきたぞ、つまり俺が元から身に着けていた忍者の技や知識が、この世界のクラスに順応して発揮されているんだろう。
とすると、やりたいことがまた増えてきたな。
こりゃ忙しくなる。
ん? なんだかエリカがモジモジし始めたな。小便か?
「あの……。シュウさんは薬師の恩恵を持つと分かりましたので、無理に危険な探索者をする必要は無いわけですが……」
ああ、そういうことか。
薬師の恩恵があれば迷宮探索者にならずとも、地上で需要のある職に就けるというわけだな。
まあ俺には関係のない話だが。
「いや、俺は迷宮に行くぞ」
「い、いいんですか!?」
だって忍者だからね。
ウキウキと倉庫の備品を片付けているエリカ。
新たにこの世界にやってきた漂人のシュウ、彼が当面の寝泊まりをする部屋を用意しているのだ。
近年になくエリカはご機嫌であった。
なにしろとんでもない期待の新人が現れたのだから、彼女が日々案じている懸念や憂鬱に光が差した思いなのである。
彼女が勤める漂人局はその設立の使命として、異世界より漂着してくる迷い人である『漂人』の保護と流民化を防止する福祉政策の任を負っている。
……のだが、その運営はかならずしも順調では無かった。
仁徳を持った為政者の意思により設立された漂人局ではあるが、その為政者もすでに世に無くこうした福祉政策の常として時代の変遷と共に変容を余儀なくされる。
ただでさえ人々の日々の暮らしにさしたる保証もない世界のことだ、身寄りも後ろ盾もない漂人の保護政策に向ける官吏たちの視線は温かい物ではない。
先々代の王の栄光を慮 って予算が閉ざされることこそはないものの、漂人局の設備や運営を監察する官吏が来るたびに、迷宮魔石の専売による採算性向上をうるさく言われてしまうのだ。
まあ、官吏たちにネチネチと予算の切り詰めを言われることくらいは別に構わない。
エリカが腹に据えかねるのは……彼らの「もっと漂人どもに迷宮探索をさせて、魔石をたくさん納入させろ」との言である。
思い出すだけでもエリカの双眸に静かな怒りの炎が浮かび上がる。
迷宮探索の危険も知らないくせに、漂人の命をいったい何だと思っているのか……!
あの青白い顔面にヒョロヒョロと生やした髭を撫でつける官吏どもの襟首を掴んで、迷宮に蹴り込んで、自分でやってみろと言いたい。
せめて自身の目で見てみたらいい。
少なくともエリカ自身は、衛兵たちに無理に頼み込んで迷宮探索を実践してみたこともあるのだ。
……それこそ、迷宮の暗闇に蠢く魔物の姿に卒倒しそうになって、震えながら衛兵たちの陰にかくれるだけであったのだが。
あの暗がりで命の灯火を燃やすように懸命に生きる漂人たちにエリカが望むことは一つ、ただ無事で帰ってきてもらいたいのだ。
帰らない漂人たちが一人あるごとに、エリカは自分の足で迷宮に飛び込んで救出に向かいたい思いに身を焦がされる。
そんな力を自身が持ち得ないことに、口惜しさが溢れて堪らないのだ。
だからせめて、彼ら漂人たちがこの世界で生きる道のりを助けたいのだ。
「ねえ、エリカ。そんなに握りしめたらホウキがかわいそうよ~?」
そう声をかけられてハッとしたエリカは、嫌味な官吏たちの首に見立てて絞め上げていたホウキの柄を慌てて解放する。
あやうく倉庫の掃除を終える前に、掃除用具を縊り殺してしまうところだった。
「ふふっ、エリカったら。あの新人さんが来てからニコニコしたりカリカリしたり、ずいぶんお顔が忙しいわね~」
「……そういうセレナは暇なのかしら。なあに?」
声をかけてきたのはエリカの同僚の漂人局員のセレナ。
エリカとは歳も近く友人でもあり、直情なエリカをからかう悪癖があって、今も何やら楽しそうに笑みを浮かべながらエリカの様子を観察しているのだった。
「あなたが新人さんの訓練教官を探していたでしょ? 傭兵ギルドから手空きの職員を引っ張ってきたわよ」
「わっ、ありがとうセレナ!」
泣いたカラスがもう笑うとはこのことか、さきほどまでセレナのからかいに渋面を作っていたエリカが笑顔で抱きついてくる様子に、セレナは苦笑を浮かべた。
「もう、ずいぶんご執心なのね~。そんなに期待の新人なのかしら……魔石いっぱい持ってきてくれそうね」
セレナがそう言うと、笑ったカラスがすぐに今度はキリッと真剣な表情になる。
「……凄い才能だと思うけれど、でもそれはまだ先の話よ! まずはしっかりと訓練してもらって、無事に帰ってこられるだけの力をつけてもらわないと! ちゃんと身体を休められるようにこの倉庫もキレイな部屋にしておかないといけないわ……それから、一緒に探索できるパーティも探さないとだし、冒険者ギルドとも顔をつないでもらって……それから、それから……」
熱心に指折り数えるエリカの姿を見ながらセレナはやれやれと肩をすくめる。
これでしばらくの間は友人の表情が賑やかになりそうだなと予感して、それを想像すると彼女も胸が軽くなる想いなのであった。
