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ドクトルさんの最強白魔法 1
著者:秋山 楓 イラスト:ようづき
プロローグ
彼─笹岡健人は逃げた。逃げて、逃げて、逃げまくった。
持っていた槍は放り投げ、重りになっていた甲冑は脱ぎ捨て、できるだけ戦場から離れられるよう、見知らぬ森の中をただひたすら走り続けた。
体力が尽きて立ち止まった頃には、すでに陽は落ちていた。
追手が来る気配はない。戦いの喧騒も、もう届かない。あの地獄のような戦場から、ようやく逃げ切れたのだ。生き延びたという実感により、彼の口から自然と安堵の吐息が漏れた。
だが安心するにはまだ早かった。
陽の落ちた森の中は、数メートル先すら視認できないほどの暗闇が広がっていた。そこで気づく。得体の知れないいくつもの気配が、自分の周りを囲んでいることに。
この異世界に召喚されてから戦場に出るまでの一か月の間に、城の賢者から話を聞いたことがあった。人の手が入っていない森などの自然区域には、魔王軍で飼われている魔物とは違う、魔獣と呼ばれるモンスターが生息しているのだと。
泣きっ面に蜂とはこのことかと、健人は握り拳大の石を拾った。唯一の武器である槍を捨ててしまったため、そこら辺にある物で対応するしかない。
「くそっ、来やがれ!」
覚悟を決めるやいなや、一匹の魔獣が暗闇から飛びかかってきた。
現れたのは、毛を逆立てた狼のような姿をした魔獣だった。牙を剥き出しにしながら、疾風の如き速さで迫ってくる。肉食獣の本能なのか、奴の狙いが首であることは即座にわかった。
持ち前の反射神経で魔獣の噛みつきを避けつつ、手にしていた石で殴りかかる。すると見事に下顎へヒットし、魔獣は「きゃうん」と情けない声を上げて地面を転がっていった。
イケる! 今の身体能力なら十分に対応できる!
焦りながらも、勝機が見えたことで自然と頬が緩む。
だが……それで終わりだった。
周りを囲んでいた魔獣たちが一斉に襲いかかってきたのだ。一匹だけなら対処できたものの、五匹同時の急襲には為す術がなかった。
左脚を噛みつかれたことにより、バランスを崩して地面に倒れる。
首をガードした右腕が噛み砕かれ、食い千切られる。
抵抗はした。しかし野生の暴力の前では生きることを諦めるしかなかった。
全身の痛みと失血により動けなくなった健人は、静かに魔獣の餌となる。魔獣たちも獲物が死を受け入れたと判断したのか、荒らげた息を抑え、一番肉の詰まっている下腹部へと牙を立てた。
食い破られた腹から出てきたのは小腸だった。
最も身近にあるのに、生まれてから一度も目にしたことのない大切な器官。それらが乱暴に外へ引きずり出され、奪い合うように引っ張り合われ、魔獣に食われていく。未だに意識を失えていない健人は、その様子を他人事のようにぼんやりと眺めていた。
「いや……だ。死にたく……ない。なんで、こんな所で……」
溢れた涙が視界を奪う。だが目が視えなくなろうと現実はそのままだ。
血肉と獣臭の混じった耐え難い臭い。くちゃくちゃと生肉を咀嚼する不快な音。臓器が身体の外へ出ていく嫌悪感。
もう元には戻らない。食われた内臓は再生しない。ならば後は死を待つのみ。
自らの終わりを悟った健人の全身に、絶望が虫のように這っていく。
生きる希望を失ってから意識を手放すまでは早かった。死に身を委ねた途端、呼吸が止まる。
その時、魔獣たちの動きがピタッと止まった。内臓をかき混ぜられる感覚が消え、胴体を圧迫していた重りが退く。そして静かな足音とともに、魔獣の気配が遠ざかっていった。
自分がまだ生きているのか、もう死んでいるのかすらもわからない健人には、何が起きたのかさっぱり理解できなかった。何故、魔獣たちは途中で食べるのをやめたのか。何故、落ち込んだようにとぼとぼと去っていったのか。
いや、もうどうでもいい。もう、どうせ自分は助からない。痛みすらも失ってしまった下腹部が、そう物語っていた。
ゆっくりと、意識が永眠りの中へ落ちていく。
水底から水面を見上げるようなぼやけた視界の端に、ふと何かが映った。ローブみたいな、ゆったりとした服を着た誰かが自分を見下ろしている。
「この森へ入るのに何の対策もしないとは、とんだ愚か者がいたものですね」
呆れるような、憐れむような女性の声。
すると突然、視界が白い光に包まれた。
ああ、今の女性は天使だ。死に逝く俺を、あの世から迎えに来てくれたのだ。
そう確信するのとともに、健人は完全に意識を失ってしまった。
第一章
笹岡健人は、ほんの一か月前まで普通の高校生だった。
しかしその日、特別な日でもなんでもない平日、彼はクラスごと異世界に転送された。
異世界転移ともなれば、チート能力や冒険など、誰だって少しは期待するもの。召喚された直後は混乱に満ちていたが、状況を把握するにつれ、少しずつ非日常に心を躍らせていたのも事実だった。
だがしかし、この異世界は想像とはまるで違っていた。
特別な力を持つ勇者ではなく、ただ単に兵力を欲していただけなのだ。
この世界では現在、人類軍と魔王軍による大戦争の真っ只中だった。自軍の兵力だけでは攻略不可と判断した人類軍は、異世界から人材を確保しようと考えたのである。
だだっ広い召喚の間で賢者が説明したのは、今の世界情勢と、召喚された者は身体能力が多少強化されていること。言語や文字などの理解能力を付与されたこと。そして元の世界に帰りたくば、生きて魔王軍に勝利せよとのことだった。
それから一か月の間、健人たちは奴隷のように訓練させられた。
健人たちの中に魔力を持つ者がいなかったため、魔法はある程度の知識に留め、主に白兵戦による戦闘術と槍の使い方だけを学んでいった。
そして戦闘の基礎知識を無理やり教え込まれた健人たちは、魔王軍との紛争地帯へ送り込まれることになる。
だが一か月前まで一介の高校生だった彼らが、いきなり戦争なんてできるわけがない。身体強化も元の世界の二倍程度しか付与されておらず、しかも相手は見たこともない怪物ども。後衛の魔導士たちの壁役くらいにしかならないことは、目に見えていた。
だから健人は逃げ出した。
次々と魔王軍のモンスターに殺されていくクラスメイトを見て、恐怖のあまり何もかもを捨てて戦場から逃走した。
しかし、その逃走劇も呆気なく終わってしまった。
見知らぬ森の中、複数の魔獣に遭遇し、彼は死んだ─。
「─うわあああああ!!」
自分が死ぬという最悪な事実を突きつけられた健人は、絶叫とともに飛び起きた。
全力疾走した後のように息を荒らげ、不快感を抱くほどの汗が全身から噴き出している。未だ夢うつつの状態であるためか、数秒の間は視点が定まらなかった。
ただ混乱に満ちてはいるものの、今やるべきことは本能が示した。
彼はまず、ゆっくりと自分の右腕に視線を移す。
「あ……ある……」
自由に動かすことができる。間違いなく自分の腕だった。
「……い、生きてる?」
穴の開いていない下腹部に触れると、脳裏に悪夢が過った。
右腕が噛み砕かれる音。腹の中をかき混ぜられる感触。鼻腔を刺激する血の匂い。あの感覚が夢であるはずはない。あれは間違いなく現実だった。
だが前後の記憶が繋がらない。魔獣に襲われた自分が、何故こんな場所にいるのか。
「ここは……どこだ?」
気持ちを落ち着かせるため、周囲の様子を観察してみる。
健人が横になっているのは、白いシーツの上だった。床の高さからして、おそらくベッドの上なのだろう。
さらに見回してみると、ここがログハウスのような屋内であることがわかった。丸太を積み重ねた壁に、高い天井。家具らしい家具は木製のタンスとサイドテーブルだけで、陽が差し込んでいる窓にはガラスがない。というか今、何時なのだろうか?
魔獣に襲われたのは、確か日没から間もない頃だったはず。にもかかわらず、すでに陽が昇っているということは、少なくとも一晩中気を失っていたということだ。
「……ダメだ、考えがまとまらない」
自分一人では状況が把握しきれず、健人は頭を抱えた。
とはいえ、自分をこの場所に運んできた誰かがどこかにいるはず。シーツの清潔さや清掃が行き届いている様子を見るに、まさか廃墟ではないだろう。
このログハウスの家主を探すため、ゆっくりとベッドから立ち上がろうとした健人だったが……彼の思考を読んだかのように、タイミングよくドアが開いた。
「おはようございます。叫び声が聞こえたので朝食をお持ちしました」
パンとミルクを持って部屋に入ってきたのは、健人と同年代の少女だった。
肩のラインで大雑把に切りそろえられた髪は絹糸のように繊細で、色素が薄いのか灰色のようにも見える。また肌の方も太陽とは無縁のミルク色をしており、その血色の悪さは、やや栄養が足りていないような印象を受けた。
少女の顔に表情はない。翡翠のように美しい瞳は、無感情のままじっと健人を見据えている。美貌と無機質、二つの意味で人形のような少女が唐突に現れ、立ち上がろうと腰を浮かせていた健人は思わず動きを停止させた。
「お、おはようございます……」
反射的に挨拶を返すと、少女は流れるように健人から視線を逸らした。
そしてパンとミルクの載ったトレイをサイドテーブルに置くやいなや、そそくさと退室しようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
さすがにそのまま帰すわけにはいかず、健人は身を乗り出すように引き止めた。
「……なにか?」
「なにか? じゃなくて……」
心底鬱陶しそうな目つきをする少女を前にして、健人は尻込みしてしまった。
それでも対話する意思を見せてくれたことには感謝しなくてはならないのだろう。未だに混乱している頭を無理やり稼働させ、問うべき質問を必死で絞り出す。
「あ、あの……ここはどこですか?」
「私の家です」
「…………」
「…………」
ドアノブに手をかけたまま停止する少女と、大きく口を開けて呆気に取られる健人。
もう少し情報を与えてくれてもいいんじゃないか? と思うも、もしかしたら一問一答形式なんじゃないかということに気づく。
「えっと……俺、昨日……かどうかはわかりませんけど、死にましたよね?」
「そうですね。厳密に言うと完全には死に至っておらず、瀕死の状態でしたが」
「あなたが助けてくれたんですか?」
「……はい」
表情を引きしめて呟いた後、少女は機械的に頷いた。
助けてくれた、という事実はいい。だが今ここにある現実に納得がいかず、健人は再び自分の右腕を眺めながら問いただした。
「確か、魔獣に腕を食い千切られたと思ったんですが……」
「ええ。それに私が見つけた時は、腸がほとんど引っ張り出されていました」
「でも治ってる」
「私が治しました」
「…………は?」
理解の及んでいない健人に向けて、彼女は呆れたように息をついた。
「察しが悪いですね。私、白魔導士なんですよ」
「白魔導士……」
城にいた頃、魔法については賢者から大まかな話を聞いていた。
白魔導士とは、主に傷や病気を治す魔法使いである。攻撃的な魔法を使えるわけではないため前線には出ず、野戦病院で負傷兵の治療などを担っていると言っていた。
確かに少女の身なりを見ても、身体の線が隠れるほどのゆったりとした白いローブは、ゲームか何かの白魔導士のイメージそのものである。服装で職業が判断できるのは、どの世界でも同じなんだなと、健人は感心したのだが……。
いやいやいやと、彼は大げさに首を振った。
「そんなはずはない。普通の白魔導士は傷を塞いだりするのが精一杯で、失った腕を再生するなんてのは限られた魔導士にしかできない大魔法だと聞きましたよ」
魔法で傷を治す方法は、大きく分けて二通りある。
一つは魔力で細胞を活性化させる方法。細胞分裂を促進して傷を塞ぐのである。魔力量は少なくていいものの、治した部位の老化が早くなることがデメリット。いずれ自然治癒で治る傷を、魔力によって時間短縮させているのだとか。
もう一つは魔力そのものが血肉となり、身体の欠損を補う方法。重傷や即座に死に至るような負傷に適用されるらしいが、魔力は膨大に消費する。
人間の腕を元通りに復元するのであれば、必然的に後者にならざるを得ない。
だから健人は少女の言葉を疑ってしまった。
賢者の話を真に受けるなら、右腕丸々一本どころか、幾分か食われた下っ腹まで完治させるためには、一個人の魔力量ではまず不可能なのだ。にもかかわらず、彼女は自分が治したのだと断言した。
いや、彼女は『一人で治した』とは言っていない。他にも誰かいるのか?
それとも実際には魔獣に襲われてから何日も経過しているのか?
様々な疑問が健人の頭の中を駆け巡る。
返答を聞くために黙り込んでいると、ふと少女が視線を逸らした。床を見つめながら、落胆のため息とともにポツリと漏らす。
「……やっぱり、助けなきゃよかった」
「えっ?」
かろうじて届いた声に、健人は呆気に取られてしまった。
すると少女が急に踵を返した。乱暴にドアを開けると、今度は呼び止める暇もなく、あっという間に部屋から去っていく。
「ちょっ……」
あまりの思いがけない出来事に、健人は反射的に手を伸ばす。だが、それが災いした。
不意に身体が浮いた。いや、すでに身を乗り出していた状態から、さらに体重を移動させたため、ベッドから落ちたのだ。身体に絡んだシーツがサイドテーブルを巻き込み、健人自身は大転倒の末に床へ肘を強く打ち付ける。
「痛った……」
ちょうど骨のある部分を強打したのか、思った以上に痛かった。
とはいえ生きているという実感に感動したまま蹲っている場合ではない。浮かび始めた涙を拭った健人は、慌てて少女の後を追った。
ドアの向こう側は、一家族が過ごすには十分な広さのあるリビングになっていた。
部屋の真ん中にファミリー用の大きなテーブルがあり、壁際には煉瓦で囲われた暖炉と、その正面にソファーやロッキングチェアが並んでいる。その他チェストや書棚の上には、灯されていないランタンがいくつか置いてあった。
電化製品が存在しないため、どうしても殺風景に見えてしまう。ただそれを抜きにしても、絵画や花瓶などの装飾品すら見当たらない内装は、『ただ住むためだけの家』というような印象を受けた。
ドアが閉まってから急いで追いかけたためか、少女の背中は目の前にあった。
健人の存在に気づいた彼女は、振り向きざまに訝しげな声を上げる。
「……なにか?」
「いや、だから『なにか?』じゃなくて、もっと詳しく説明してください」
健人が身振り手振りで力強く要求すると、少女は面倒くさそうにため息を吐き出した。そして斜め下に視線を落としたまま、健人の方へ人差し指を向ける。
「朝ごはんは食べましたか?」
「朝ごはん? 何の話ですか?」
「先ほどお出ししたパンとミルクです。せっかく無償で提供して差し上げたのに、口にしないのは失礼ではありませんか?」
「…………げっ」
思い出した健人は、奇妙な声を漏らしながら目を泳がせた。
その様子を怪訝そうに見つめる少女。次の瞬間、健人が不可解な態度を取る理由に思い至ったのか、彼女は大きく目を見開いた。
「まさか、さっきの音って……」
「…………」
健人の額に冷汗が浮かぶ。選択を間違えれば即座にバッドエンドへ突入するアドベンチャーゲームの主人公になった気分だった。
なので彼は最も後悔の少ないルートを選ぶことにした。
腰を直角に曲げ、誠心誠意をもって謝罪する。
「ごめんなさい! 立ち上がる時に転んで床へ落としてしまいました!」
「はぁ……」
眉尻を下げた少女は、ガクッと肩を落とした。
それでも舌打ちをされなかっただけマシというもの。健人は頭を下げたまま、少女の裁定を待った。
「お気になさらず。気が動転していたようなので無理もありませんし、ベッドの近くに置いた私にも非はあります。けど……」
そう言って、彼女は近くのチェストから雑巾を取り出した。
「自分の粗相は自分で処理してください。その間、私は新しいパンとミルクを用意しますので」
「……はい」
有無を言わせない少女の圧に負けた健人は、雑巾を受け取るやいなや、とぼとぼと先ほどの部屋へ引き返していった。
掃除を終えてリビングに戻ると、すでに朝食の準備を終えた少女がテーブルについていた。
「どうぞ」
促されたので、健人は彼女の対面に座る。
「椅子が四つありますけど、他にも誰か住んでいるんですか?」
「いえ、私だけです。それらの椅子はお客様用なので」
素っ気なく返すと、少女は話題を拒むかのようにミルクを口にした。
踏み込んでほしくない領域なんだなと判断した健人もまた、朝食を食べ始める。異様に硬いパンもさることながら、ミルクはとにかく臭いが酷い。表情を変えないよう精一杯頑張るが、この一か月、城で飲んでいた物とほとんど大差なかったので慣れたものだった。
ともあれ、こちらから話しかけないと少女が何も語らないことは目に見えている。健人は食事の手を止めないまま問いただした。
「さっきの続きですが、昨晩はあなたが俺を助けてくれたんですよね?」
「先ほどもそう答えました。疑っているのですか?」
「疑うも何も、俺はこの世界に来てからまだ一か月しか経っていないんです。魔法なんて数えるくらいしか見たことないし、知識すら城の賢者に与えてもらったものだけで……」
「ああ、なるほど。異世界からの転移者でしたか。どうりで顔の作りが違うと思いました」
顔の作りが違うというのは、おそらく健人が日本人だからだろう。城の中で会った兵士や給仕の女性に、いわゆるアジア系の顔立ちはいなかった。
「もしかしたら単一人種なのかもしれないな、この世界」
「何か言いましたか?」
「……いえ、なんでもないです」
まじまじと見つめていたことを咎められると思い、健人は慌てて顔を背けた。
彼が異世界人だと知ったためか、少女の口元が少しだけ緩んだような気がした。今のやり取りも含め、不躾な態度にも納得がいったと言っているようだ。
「この世界の白魔法をどのように聞いているか知りませんが、私の魔法は少し特殊なんです」
「特殊?」
「再生、回復、蘇生、復元、縫合、接合、除去、その他いろいろ、およそ『人体を治す』ことに限っていえば、なんでもできます」
「なんでもって……」
「なんでもはなんでもです」
その言葉を耳にした健人は、思わず絶句してしまった。
ただ彼女の能力は、すでに実体験として証明されている。たった一晩で右腕を再生させたり、ぐちゃぐちゃになった下腹部を完全修復したりするなど。しかも本人談では、蘇生もできるという。
「それはもう……神の領域に到達しているんじゃ?」
「神、ですか」
俯いた少女の顔に影が差した。
気分を害した様子ではないものの、神と呼ばれたことを快く思っていない表情。どんな怪我や病気でも治せるのなら、もっと誇っていいと健人は思うのだが……何か自分を卑下しなければならない理由でもあるのだろうか?
この世界に来てから、たった一か月。さらに、ほとんどの時間を訓練に費やしてきた彼には、彼女の胸中を推し量ることなどできなかった。
「でも、そんなに優れた白魔法が使えるんなら、なんで戦場に行かないんですか? 後方で救護するだけでも、多くの命を救えたはずです」
頭の中で何かが切り替わるのと同時に、健人は徐々に体温が上昇していくのを感じた。
身体に熱を帯び始めた理由は明白だ。魔王軍によって次々と殺されていくクラスメイトのことを思い出したのだ。
槍で貫かれる者。モンスターの爪で引き裂かれる者。攻撃魔法の爆発で四肢が吹っ飛ぶ者。確かに手遅れの奴もいただろう。しかし少女ほどの白魔導士がいたのなら、友人たちの多くは死なずに済んだかもしれない。
すでに叶わない願いだと理解しつつも、健人の声に力が入る。
だが彼の熱とは対照的に、少女の態度は冷えに冷え切っていた。
「では、どちらの陣営に付けばいいと言うのですか?」
「……えっ?」
予想だにしていなかった返答を聞いて、健人は間の抜けた声を上げた。
「この世界では現在、人類軍と魔王軍の二つの勢力が争っています。仮に私が戦争に参加するとして、どちらの味方をすればいいと思いますか?」
「えっと……人間だから人類側じゃ?」
「魔王軍の中にも、少なからず人間はいますよ」
それは知らなかった。もしかしたら意図的に情報を与えなかったのかもしれない。
とはいえ、魔王軍に味方する理由がなければ人類側に加勢するべきだろう。それで救われる命があるなら、彼女は戦争に参加するべきだ。参加するべき……はずなのだ。
「…………」
ふと、健人は違和感に気づいた。
どうして自分は初対面の少女に戦争に参加するよう迫っているのだ? しかも自分が逃げ出した戦場へと駆り出すようなマネを。
自分の発言が矛盾していることを自覚し、健人は眉間を摘まんだ。
「どうかされましたか?」
「いや。頭の中で、何か変な感覚が……」
「変な感覚? ああ……いきなり戦争参加を促してくるあたり、もしかしたら洗脳でもされているのかもしれませんね」
「洗脳?」
「城のやり方です。召喚した異世界人を物言わぬ兵士として仕立て上げるため、少しずつ催眠を施しているという話を耳にしたことがあります」
「そんな……」
驚きの声を上げるも、健人には少なからず心当たりがあった。
今思えば、城での生活はやはり異常だった。誰も逆らうことなく、それどころか最初の頃以外は愚痴すら漏らすことなく、淡々と城の奴らに従っていたのだから。
この一か月を振り返っていた健人の手に自然と力が入っていく。
洗脳なんていう卑劣な手段を使いやがって……。
「はぁ」
少女の深いため息が耳に入ったことで、健人は我に返った。
見れば、テーブルの上がパンくずとミルクで汚れている。人類軍に対する怒りで手が震えていたのだ。
「……ごめん」
「構いませんよ。あなたの怒りには理解できる部分もありますので」
手渡された布巾でテーブルを拭く健人。
しかし次に少女の口から放たれた言葉には耳を疑った。
「あなたの素性は大体わかりました。大変な境遇にあるかとは思いますが、少し休んだら帰ってください。私は戦争に参加しません」
「え?」
「もちろん、魔獣に襲われないよう安全な場所まで送ります」
正直なところ、まさか早々に帰れと言われるなんて思っていなかった。
いや、自分はもう怪我人ではないし、ここは病院でもない。こんな失礼な奴を自分の家から追い出したくなる少女の気持ちは、健人も痛いほど共感できた。
だけど、それでどうする? この家を出た後、どこへ行けばいい?
ここは異世界だ。頼れる相手なんて一人もいない。唯一、自分を支えてくれる公的機関があるとすれば、あの城以外にないのだが……再びあそこへ戻るのか?
想像した瞬間、全身から大量の汗が噴き出した。
イヤだ。二度とあそこへ戻りたくない。もう奴隷のような扱いを受けたくはない!
息遣いが荒くなり、喉がカラカラに渇いていく。戦場から、そして城の奴らから逃げきれた安堵を一度でも享受してしまったためか、拒否感は度を越して膨らんでいった。
「大丈夫ですか?」
「─ッ!?」
ひんやりと冷たい感触が健人の手を刺激した。驚いて視線を下げると、対面の少女が自分の手に触れている。眉を寄せ、翡翠色の瞳をまっすぐ向けていることから、急に様子のおかしくなった健人を心配しているのだろう。
気持ちを落ち着かせるため、健人はリビングを大きく見回した。
大丈夫。ここはもう城の中じゃない。
「……すみません。取り乱したみたいで。それで、あの……」
目を逸らした健人は、諦めたように言葉を絞り出した。
「俺は……帰れないんです」
「帰れない? 私を説得するまで帰ってくるなと言われているんですか?」
「いえ、そうではなくて……実は戦争の途中で逃げ出してきたので……」
「なるほど、脱走兵でしたか。だから、あんな場所で魔獣に襲われていたんですね」
ようやく合点がいったと言わんばかりに、少女は深く頷いた。
彼女の気が緩んだと判断するやいなや、健人は一気に畳みかける。
「なので、お願いがあります。俺をここに住まわせてください。他に行く当てができるまでで構いませんので……」
「は、はい?」
「無理を言ってるのは百も承知です。けど、俺はもう城には戻れない。あの地獄には戻りたくないんです。それに、できれば命を救ってくれたお礼もしたいですし……」
目を丸くする白魔導士の少女に向けて、健人は深々と頭を下げた。
テーブルに額を擦りつけたところで、再三のため息が健人の耳に届く。
「はぁ、本当に助けるんじゃなかった」
あまり好意的ではないセリフに、健人はビクッと身体を震わせた。
ただ、どちらかといえば拒絶よりも諦めの方が大きいような気がした。
「わかりました。いいですよ。寝床も余っていますし」
「ほ、本当ですか!?」
「先ほどの様子からして、城に帰ったら酷い目に遭うのは本当のようですから。そんな異世界人の脱走兵を追い出したら、私の方が悪者みたいじゃないですか」
「ありがとうございます!」
「ただし、条件が二つあります」
頭を上げた健人の前に、少女は指を二本立てた。
「一つは家事。家のお手伝いをしてもらいます」
「もちろんです。なんでもやります」
「もう一つは私に対して敬語を使わないこと。年下からの敬語は苦手なもので」
「……?」
普通、逆じゃないのか? 年上から敬語で応対されるのは、健人としてもむず痒いものがあるから理解できるのだが……と思っている途中で、ふと気づいた。
今、年下と言ったか?
「えっと、おいくつですか?」
「私は十八です」
「まさかの年上だった」
「……そんなに意外ですか?」
「いや、まあ、なんというか、ずいぶんとお若く見えたもので……」
危うく無礼になりそうな表現を飲み込んだ健人は、慌てて取り繕った。だが彼が狼狽するのも無理からぬこと。十七歳の健人ですら二つくらい年下かなと思ってしまうほど、彼女は童顔だったからだ。
「それと名前ですが……申し訳ありません。できれば本名を名乗りたくないので、私のことはドクトルとお呼びください」
「わかりました……わかった。俺は笹岡健人。健人って呼んでください……呼んでくれ」
「ケントさんですね。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
年上に対してタメ口慣れしていないせいで、しどろもどろな自己紹介になる。その気恥ずかしさを誤魔化すため、健人は握手を求めたのだが……この世界には握手の習慣がないのか、少女は健人の手に気づかないままミルクを飲み干したのだった。
***
「街中じゃないことは知ってたけど……この家、本当に森のど真ん中にあるんだな」
正午。ドクトルの手伝いをするために外へ出た健人が、周囲を見回しながらぼやいた。
背の高い木々がログハウスの周りをぐるっと囲んでおり、外界へ繋がる道らしい道も見当たらない。また太陽は真上にあれど、枝葉の傘が日光を遮断してしまっているため、家の周辺以外は二十メートル先もはっきりと見えないほど視認性も悪い。
そんな鬱蒼とした森の中へドクトルは躊躇いもなく足を踏み入れていくので、健人は慌てて彼女の背中を追った。
「えっと、森の中って危険じゃないのか? ほら、魔獣とか」
魔獣に殺されかけてから、まだ一日も経っていない。健人にとっては、再び死地へ赴くようなものだろう。今まさに茂みの奥から魔獣が現れるんじゃないかと警戒してしまい、出発してからずっと及び腰だった。
だが肩越しに振り返ったドクトルの顔は、なんの不安もないように飄々としていた。
「大丈夫ですよ。魔獣は私を襲ってきませんので」
「なんで?」
「逆らってはいけない人間であると、すでに承知しているのでしょう」
つまり襲えば返り討ちに遭うと本能で理解、もしくは経験で知っているのだろう。
昨晩、彼女が近づいただけで、魔獣たちがそそくさと逃げて行ったのを思い出した。束になっても敵わないと思わせるほどの力関係が、すでに出来上がっているのかもしれない。
「白魔法だけじゃなくて、攻撃的な魔法も得意なのか」
「黒魔法も扱えなくはないですが、苦手ではありますね」
「けど物理的に追い払えそうな体つきにも見えないしなぁ」
どんな理由で魔獣に恐れられているのか不思議に思っていると、彼女は珍しく表情を崩して得意げに言った。
「治せるということは、その逆もまた可能だということです」
不敵に笑うドクトルの顔は、ちょっとだけ怖かった。
まあ、あまり詳しくは聞かないでおこう。水を氷に、氷を水に。魔法を使えば自由に変えられるようなものだと解釈しておいた。
「とはいえ魔獣だけでなく、この森には人間にとってあまり好ましくない生物もいます。なので散策する際は、必ず私と一緒に行動してください」
「例えば?」
「妖精とか、悪魔とか」
「この世界、そんな物騒な生物が当たり前のように生息してるのか……」
絶対に一人で家から出ないようにしようと、身震いした健人は誓いを立てたのだった。
「それで今日の作業は、水汲みとペペナ草っていう薬草の採取ってことだけど……」
そう言って、両手に持っている空の麻袋と水汲み用の木製バケツに目を落とした。
「水汲みはともかく、薬草の採取って必要なのか? 白魔法でなんでも治せるんなら、薬草なんていらないんじゃ?」
「薬草は街で売ったり、食料や雑貨品と交換したりするためです」
「ああ、なるほどな」
確かにパンや家具などは、収入を得ないと手に入らない物だ。
方向感覚さえ狂いそうな森の中をずんずん進みながら、彼女は説明を続けた。
「この世界の住人は、基本的にありとあらゆる魔法を使うことができます。ただ当然ながら、人によって得手不得手があります。私も白魔法なら誰にも負けないという自負がありますが、その他の魔法は各専門家に大きく劣りますからね。薬草などの傷薬は、白魔法が苦手な方、さらに魔法の扱い自体が不得意な人に処方されるんです」
「誰でもなんでも使えるって……すごいな」
「そんなに驚くほどのことですか?」
歩を緩めたドクトルが、意外そうに健人の顔を見上げてくる。この世界の人々にとって、それだけ魔法は当たり前にあるものだということなのだろう。
「俺の世界には魔法がないから、魔導士しか使えないって認識になってるんだよ」
「そういうことでしたか」
納得したドクトルは、再び歩調を速めた。
「この世界に存在するすべての物質には『宝氣』と呼ばれるエネルギーが含まれています。『宝氣』は普通に生活しているだけで自然と外部から取り入れられるようになっていて、徐々に体内へ蓄積されていきます。その『宝氣』を魔力に変換することで、魔法が使えるのです。この魔力への変換を得意とする人が、主に魔導士の職に就くみたいですね。補足として、長年触れ続けた『宝氣』の種類によっては、魔力の系統が偏ることもあります。例えば水辺に住む人は水系の魔法が、鍛冶屋の職人は炎系の魔法が得意になるとかですね」
「じゃあ俺も、いずれは魔法を使えるようになるってことなのかな?」
「おそらくは。ただ、この世界に来てから日が浅いということなので、大きな魔法は難しいと思いますが」
それでも試してみる価値はある。今度、魔法の使い方を学んでみようと健人は思った。
そこで、ふと気づいた。
「どんな魔法でもってことは、その……召喚魔法も?」
「必要がないので試したことはありませんが、私にも扱えると思いますよ」
その事実は、健人にとって一筋の光明だった。
「ならドクトルさんの召喚魔法で、俺を元の世界に帰してくれれば……」
「あー……期待させて申し訳ありません。現段階では、それはまず不可能です」
気まずそうに視線を逸らすドクトルの態度からは、本当に不可能であることが見て取れた。
希望から落とされた落差があまりにも激しく、健人もついつい敬語に戻ってしまう。
「えっと……どうしてですか?」
「まず私は召喚魔法に慣れていません。とはいえ、これは練習すれば何とかなると思いますが……そもそもケントさんの世界の座標を知りませんので」
「座標?」
「世界の位置情報みたいなものです。異世界から召喚する分には必要ありませんが、元の世界に送り返す場合は、送り返し先がどこかを認識していなければなりません。座標なしで送り返そうとすると、ほぼ間違いなくまったく知らない別の世界へ飛ぶことになるでしょうね」
住所みたいなものだと解釈するのと同時に、そりゃそうかと納得した。
「その座標ってのは、どこに?」
「ケントさんを召喚した人物が知っている、もしくはどこかに書き留めて保管していると思いますよ。忘れていたり、紛失したりしている可能性もありますが」
いや、魔王軍との戦争が終わったら帰してくれる約束なのだから、どこかに保管してあるはずだ。もちろん、その約束が嘘でなければの話だが。
「元の世界に帰るためには、もう一度だけ城に行く必要があるってわけか……」
城へ戻ることを想像しただけですくみ上がってしまう自分が、果たして首尾よく座標を盗み出すことなんてできるのか。この恐怖心も、いずれは克服しなければならない。
そうこう話しているうちに、採取地点へ到着したようだ。その場で屈んだドクトルが、手の平大の草を手に取って見せてくる。
「これがペペナ草です。できるだけ多く採取して、この麻袋に詰めてください。仮に間違った雑草を入れても、後で私が検分するので大丈夫ですよ。ああそれと、あまり私から離れないでくださいね」
最後の一言だけは肝に銘じ、薬草の採取を開始した。
特に会話をすることもなく、作業は黙々と進んでいく。お互い背を向けることはあっても、茂みを隔てたりはせず、振り向けば常に視界に入る場所で薬草を集めていった。
すぐ側にドクトルがいる。その安心感が、油断を招いた。
突然、耳元で声がしたのだ。
「貴方のお名前は?」
息を吹きかけられるような囁きに背筋を震わせるも、不思議と驚くことはなかった。この場には自分とドクトルしかいないのだ。何かの悪戯かと思った健人は、振り向きざまに答えた。
「もう忘れたのか? 俺の名前は笹岡健人……」
しかし言葉は続かなかった。なぜならドクトルは数歩ほど離れた場所で薬草の採取に勤しんでおり、しかもこちらに背を向けていたからだ。とても囁きが届く距離じゃないし、あそこまで移動できる時間的な余裕もなかったはず。
「…………」
幻聴か? と思いつつ、健人は彼女の背中をじっと見つめる。
すると彼の視線による圧を感じ取ったのか、ドクトルが不意に振り返った。
「……? ケントさん、どうかしましたか?」
「いや……」
盗み見ていたことに後ろめたさを感じた健人は、すぐに口を閉ざした。まあ、本当に気のせいだったのだろう。そう思い込むことにして、健人は薬草の採取を再開した。
麻袋が一杯になったところで、二人は沢へと移動した。
徐々に水の流れる音が聞こえ始め、空気に湿気が混じっていく。茂みをかき分けると、そこは目的の沢。ごつごつした大きな岩が多いものの、急な斜面ではないので、水の流れは非常に穏やかだった。
心地よい水しぶきを含んだ空気が顔に触れ、薬草採取の疲れを癒してくれる。だが何より健人が驚いたのは、その水質だった。
「透き通り具合が半端ないな」
流水だから水があると認識できるほど。水たまりだったら触れてみるまでわからないだろうなと、健人は思った。
「山の湧き水がそのまま流れてきていますからね。ケントさんの世界では違うのですか?」
「いや、俺の世界でも同じだよ。自然が多い場所だと、これくらい綺麗な水が流れてる沢もあるんだろうけど……俺は生で見たことはないかな」
そう言いながら、バケツを置いた健人は沢の水を手で掬って口にした。
適度に冷たい感覚が喉を通り、全身に潤いが染み渡る。ああ、この気持ちよさは真夏の運動後に水道水を口にした時と似ているなと、健人は昔を懐かしんでいたのだが……その行為を目の当たりにしたドクトルが驚きの声を上げた。
「ケ、ケントさん! 何やってるんですか!? そのまま飲むと、お腹を壊しますよ!」
「えっ、飲み水を汲みにきたんじゃないの!?」
「それは除去魔法で消毒してからです!」
勇み足だった自分に、ちょっとだけ恥ずかしくなった。
水一杯のバケツを両手に持って、今の道を戻っていく。量的にも、あと何往復かするらしい。召喚された時に身体能力を強化しているとはいえ、水の入ったバケツを抱えて森の中をひたすら歩くのは、なかなかしんどいものがあった。
というか身体能力二倍は、あくまでも被召喚者の健人だけである。この世界の人間は、地球人とさほど身体能力の違いはないはずなのだが。
「ドクトルさんって、一人でこれをやってたんだよね?」
「私一人なら雨水の貯水だけで十分でしたので」
「ああ、そうか。魔法で消毒するなら、雨水も沢の水も関係ないのか」
「それに私が運ぶ時は反重力魔法で重さを軽減していますので、腕力はあまり関係ありません」
「なんと。それなら俺のバケツにも魔法をかけてくれればいいのに」
「反重力魔法は、常に自分で持っていないと効果が出ないんですよ。それに得意でもない魔法を使うと、それだけ私も疲れるんです。自分の飲み水なんですから、ケントさんも自分の力で頑張って運んでください」
なるほど、体力を魔法で補っているのか。などと感心していると、「ふふっ」と悪戯な笑みを見せたドクトルが早足で行ってしまった。
不意に見せた年相応の笑顔、かつ人形のように無機質だった表情とのギャップに息を呑んだ健人は、立ち止まってしまうほど彼女に見惚れていた……かったのだが、この状況はさすがにマズいと気づく。ドクトルから離れたら、またいつ魔獣が襲ってくるかわかったもんじゃない。
反重力魔法とやらもそうだが、魔獣を追い払えるくらいの魔法は早く覚えた方がいいなと思った健人は、慌てて彼女の背中を追ったのだった。
***
それから沢と家を十回くらい往復して、浴槽が満たされる程度の水を確保することができた。ただ水の量と反比例して、健人の体力は底をつく。身体能力強化や城での訓練のおかげで力仕事にはだいぶ慣れているものの、疲労の感じ方は以前とまったく同じだった。
近日中に雨が降ることを願うのと同時に、やはり早いとこ魔法を覚えようとも思う。ほとんど同じ距離、同じ量の水を運んでいたドクトルが、まったく疲労を感じさせない涼しい顔をしていたからだ。
しまいには「ケントさんは少し休憩していてください。夕食は私が用意しますので」と、ため息混じりに呆れられてしまった。ちょっと情けない。
そして茜色の空が夜に変わる頃、夕食の準備ができたとドクトルからお呼びがあった。テーブルやチェストの上にあるランタンが灯っているので、リビングは思いのほか明るかった。
「そういえば、このランタンってどういう原理で光ってるんだ?」
「中に『太陽石』という太陽の『宝氣』を吸収できる鉱石が入っていて、周囲が一定の暗さになると自然と光を放つのです。晴れた日に日中ずっと外に出していれば、三晩くらい保てるほどの『宝氣』が貯蓄できますよ」
ソーラーパネルみたいなものか? と、健人は思った。
「じゃあ充電できない雨の日は、夜は真っ暗ってことか」
「ジュウデン? よくわかりませんが、曇りの日が続けば明かりは灯らなくなりますね」
健人は早朝と同じ席に腰を下ろす。テーブルの上には、パン、干し肉、洗って切っただけの生野菜、ミルクといった、栄養を取ることだけが目的の質素な料理が並んでいた。
とはいえ文句を言える立場でもない健人は、それらを黙々と口へ運んでいく。
途中、手を止めたドクトルが不意に尋ねてきた。
「ケントさん。水汲みでの疲れは取れましたか?」
「それなりには。まあ、城の訓練よりはだいぶマシだったから、そこまで疲れてるわけじゃないけどな」
「城ではどのような訓練をされていたのですか? 今朝の様子からして、とてもいい待遇だったとは思えないのですが……差し支えなければ教えてください」
翡翠のような瞳が、じっと健人を見据えてくる。
その無機質な視線を正面から受けることに耐えられなくなった健人は、思わず目を逸らした。気まずさか、気恥ずかしさかはわからない。ただ多大な恩がある彼女に対して、完全に口を噤むようなことはしなかった。
「……とにかく、敵を殺すことだけを教え込まれたよ」
あまり思い出したくない。という意思を前面に押し出しながら、健人は渋々語り出した。
朝は太陽が昇るのと同時に起床。朝食の後は昼まで鍛錬。午後は模擬戦や魔王軍についての知識を学び、陽が落ちてからは城の清掃など雑務をこなしていた。
そんな奴隷のような生活が、一か月も続いていたのだ。
やはり彼女が言うように、何かしらの方法で洗脳されていたのだろう。虐げられていた生活を一切疑問に思わなかった自分に恐怖し、健人は背筋を震わせた。
ただ城を離れたことによって、その洗脳も徐々に解けているのではないかと思う。もう戦いたくない。あの地獄に戻りたくない。人類軍などどうでもいいと、今は心の底から断言することができるのだから。
「ま、こんなところだな。一か月、本当に単調な日々だったから、話すことなんてそう多くはないよ」
「それで先日、ついに戦場へ駆り出されたというわけですね?」
「そう……だな」
昨日の朝の出来事なのに、その時の記憶は非常に曖昧だった。
起床していつものように朝食を取っていると、食堂に来た兵士長が「今日は実戦だ」と宣言したのだ。そして訳もわからず馬車に乗せられ、戦地へと赴いたのである。
そこから先は、ほとんど何も覚えていなかった。
辺りに充満する血の匂い。鼓膜が破けるほどの爆発音。地に伏せる人間や魔物たちの死骸。視て聴いて嗅いで体験したことが、健人の中ではすでに遠い過去のものとして切り離されていた。
だがしかし、記憶のサルベージはトラウマも一緒に蘇らせてしまう。
槍を手にし、呆然と佇む健人。その隣で突撃するクラスメイトの身体が爆散し─
「うっ……」
死への恐怖が洗脳に打ち勝たなければ、自分もああなっていただろう。
吐き気を催すも、胃の中の物を出すまでには至らない。荒くなった呼吸を整えるように、健人は不味いミルクを一気に飲み干した。
その様子を冷静に見ていたドクトルが、小さく謝罪する。
「すみません。嫌なことを思い出させてしまって」
「いや……」
いずれは現実を直視しなければいけないのも事実。ドクトルは、そのきっかけを与えてくれただけ。健人の方が感謝することはあれど、彼女が謝る必要はまったくなかった。
「走って逃げてきたということは、この森のすぐ外が戦場になっているんですか?」
「そうだね。森と荒野の境に人類軍の砦があって、そこへ魔王軍が攻めてきたから、その助っ人だと聞いたよ」
おそらく小規模な戦闘だと判断したからこそ、新人に経験を積ませるために健人たちを投入したのだろう。だが結果は御覧の有様。一か月訓練したからといって、今まで平穏に暮らしていた彼らがまともに戦えるわけがなかったのだ。
ふと健人は、ここまで戦火が届いていないことを不思議に思った。
「この森はなんで戦闘に巻き込まれてないんだ?」
「ケントさんの言う砦からかなりの距離があるから、というのもありますが、一番の理由はメリットがないからでしょうね。先ほどの沢の上流は傾斜の緩やかな山になっていて、鬱蒼とした森がずっと続きます。中には人間の手に負えない魔獣や悪魔なども棲んでいますので、危険を冒してまで侵略する意味がないのだと思います」
確かに、森に入ってから二時間近く全力疾走した記憶があるもんな。などと考えている途中で気づき、健人は苦々しい表情を露わにした。
「そんな森の中に住んでるドクトルさんは何者なんだよ」
「ここは比較的外界に近い場所ですからね。丸腰でさえなければ、ある程度は自由に出歩けるはずです。もちろん、常に危険と隣り合わせなのは変わりませんが」
昨晩のことを揶揄しているのだと気づき、健人は少しだけ恥ずかしくなった。
ただ一つだけわかったことがある。おそらく城の連中は、脱走兵である健人を追ってきたりはしない。仮に捜していたとしても、森の中まで入ってくることはないだろう。脱走兵一人に、そんな労力を割く余裕があるとは思えない。
この森にいる限り安全だという事実が、少なからず健人の心を軽くした。
不安が解消されたことで食欲が増し、出されたパンや生野菜をすべて平らげる。
夕食が終わって椅子に座ったまま一服していると、ドクトルが皿を片付け始めた。
「それくらいは俺がやるよ」
「いえ。ケントさんはお疲れでしょうし、私がやります。今日は十分にお休みください。また後日、お願いしてもいいですか?」
「ああ、わかった。ありがとう」
ドクトルの厚意に素直に甘えることにした健人は、今日一日の感謝も込め、礼儀正しく頭を下げたのだった。
***
部屋に戻る頃には、陽が完全に落ちていた。
『太陽石』の入ったランタンに布を被せ、ベッドへ横になる。昼間の労働の疲れもまだ残っているため、早々に眠れるものだと思っていたが……残念ながら、巡りに巡った思考が意識を遮断してはくれなかった。
思い出すのは、夕食で語ったこと。
どれだけのクラスメイトが生き残ったのか。自分一人だけ助かってよかったのか。これからどうするのか。
そう、いつまでもドクトルの世話になるわけにはいかないのだ。何とかして元の世界に戻る方法を探さないと。やはり一度城へ侵入し、座標とやらを見つけるのが確実か? だが脱走兵の自分が再び城に入ることなんてできるのか?
懲罰はもちろん、さらに強く洗脳されるかもしれないし、最悪処刑されるかもしれない。のこのこと城へ戻るのは得策ではないだろう。
そんなことを考えているうちにも、うとうとし始めた。意識が朦朧とし、夢と現実の区別がつかなくなる。
だが次の瞬間、耳元で囁かれた声によって一気に現実へと引き戻された。
「ケントさん。ササオカケントさん。起きてください」
重くなった瞼を強引に開け、ゆっくりと身体を起こす。
暗闇の中、ベッドの横にドクトルが立っているのがわかった。
「ドクトル……さん? どうしたんですか?」
「ケントさん、元の世界に帰る方法があります」
「えっ?」
あまりの唐突な情報に、一気に目が覚める。
だが理解はまったく追い付いていない。思考能力を夢の中へ置いてきたかのように、約束も忘れて敬語になってしまう。
「それは……本当ですか?」
「ええ。森の中にある泉が、ケントさんの世界と繋がってるみたいなんです」
「はあ!? なんでそんなことが……」
「とにかく、急いで来てください」
促されるまま、健人はベッドから立ち上がった。
何が何だかわからない。そういった意味の表情をあからさまに浮かべている自信はあったが、ドクトルは詳しい説明もせず、さっさと家から出ていく。未だ半信半疑ではあるものの、健人は仕方なく彼女の背中を追った。
周囲の木々が輪郭でしか捉えられないほど真っ暗な森の中を、足元に気をつけながら走る。昨夜はよく木に衝突することなく走り続けられたなと思うのと同時に、ドクトルを追う足をさらに加速させた。また昨日のような目に遭いたくはなかった。
昼間の薬草採取や沢とは反対方向へ数分ほど走ると、急に視界が開けた。
茂みの向こうには、大きな泉があった。広さは一般的な野球場程度だろう。空が枝葉で遮られていないため、丸々と浮かぶ月の光を余すことなく反射し、まるで泉自体が一つの宝石のように美しい輝きを放っていた。
「この泉が?」
「はい。ケントさんの世界のどこかの泉と繋がっているはずです」
「なんでいきなり……」
「今日が満月だからです」
空に浮かぶ大きな月を見上げたドクトルに釣られて、健人もまた顔を上げた。
「月光には強力な『宝氣』が宿っていて、それが満月くらい強いものになると、異世界への扉を開いてしまうんです」
「でも、座標は……」
異世界へ繋がってる云々は、まあいい。しかしそれが本当に健人の世界なのかは、昼間の説明と明らかに矛盾していた。
ただドクトルの顔を見た瞬間、問い詰める気が失せた。真剣な眼差しで見つめる彼女を、手放しで信頼しないといけないような気がしたのだ。
「……わかった」
力強く頷いた健人は、ドクトルに向けて深々と頭を下げた。
「今日一日、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
「ええ、こちらこそ。元の世界に帰っても、お元気で」
頭を上げ、泉の方に向き直った健人は、水の中へ一歩踏み出した。
靴の中が浸水し、その冷たさに身を震わせる。だが耐えられないほどじゃない。これくらい我慢しろと自分に言い聞かせ、歯を食いしばりつつも、着実に泉の中心へ向けて進んでいく。
水面が膝の高さまで来たところで、健人は不意に立ち止まった。
もう一度、最後にもう一度だけ、ドクトルの顔が見たい。
その欲求に従うまま、健人はゆっくりと振り返ったのだが─
「ふふっ、おバカさん」
「えっ……?」
人を小馬鹿にする声が聞こえたのと同時に、トンッと背中に衝撃が走った。バランスを崩した健人は、足を縺れさせて泉の中へダイブしてしまう。
何が起こったのかわからず、慌てて両手両足をバタつかせる健人。一瞬だけパニックに陥ったものの、元々水の中に潜るつもりだったので冷静になるのは早かった。
一旦浮上するよりも、このまま潜ってしまった方が安全だ。
そう判断した健人は、顎を引いて呼吸を止めたのだが……そこで彼は目撃した。膝の上辺りまでしかなかった水深は、いつの間にか底が見えないほど深くなっており、さらに触手のような黒い物体が自分の足に絡みつこうとしている光景を。
「─ッ!?」
慌てて足を引くも、すでに遅かった。
絡みついた触手が、健人を水底へ引きずり込もうとする。
「がはっ……がっ……」
今度は完全にパニックになってしまっていた。抗えないほどの力は『死』を連想させ、自由に身動きの取れない状況が酸素と思考能力を奪っていく。意味もなく、ただひたすら手足を動かすことしかできなかった。
せめて、せめて何か掴まる物があれば……。
月が揺蕩う水面に向け、必死に手を伸ばした─その時だ。
突然、何か紐状の物が手首に巻き付いてきた。それは自動的に固結びになると、健人の身体を引っ張り上げるようにピンと張る。同時に、足に絡みついていた触手の力が緩んだ。
そのまま網にかかった魚のように、健人は一気に岸へと引き上げられた。
「げほっ、げほっ……」
「ケントさん、お疲れ様です。大丈夫ですか?」
四つん這いになって水を吐き出している健人の頭に、ドクトルの声が落ちた。
手首に巻き付いている紐を伝うようにして、健人は視線を上げる。彼の顔を覗き込んでいるドクトルの表情は、特に心配しているわけでもなく、仕事を終えた部下を労うようなあっさりとしたものだった。
「ドクトルさん……これは、いったい……」
軽く咳き込みながらも、健人は問いただす。
そこで気づいた。ドクトルが手にしている紐は二本あり、健人の手首とは別の方向へ、もう一つ伸びていることに。そして─
「こらー、ドクトル!! 放しなさいよ!!」
もう一本の先端が非常に賑やかだった。
ついついそちらへ視線が移ってしまう。翅の生えた緑色の小人が空中で紐に縛られて、ドクトルを罵倒しているようだった。
「ククルゥさん。静かにしてください。ウンディーネさんが起きてしまいます」
「だったら放さんかい! ドクトルのボケー!」
ハスキーな声で喚く小人が必死で暴れ回るも、ドクトルの紐からは決して逃げられそうになかった。
状況が把握できず、健人は震える声で小人を指さした。
「えっと、この小さいのは……?」
「小さいって言うな、ボケー!」
「ククルゥさん、黙ってください。……この方は妖精のククルゥさんです。ケントさんに説明したいのは山々なのですが……すみません、泉から少し離れましょう」
「え? あ、あぁ……」
周囲を警戒するドクトルに促され、健人は立ち上がった。
ただ、それほど離れる必要はなかったみたいだ。茂み一つ越えたところで、彼女は再び健人の方へ向き直った。
「まず最初にお伝えしておきます。たぶんケントさんは私を追ってここまで来られたのだと思いますが、それはククルゥさんによる幻覚です」
「幻覚……」
唖然としたまま聞いていた健人だったが、心当たりがなくもなかった。
部屋で起こされた際、真っ暗だったにもかかわらず、ドクトルの顔がはっきりと視えていたのだ。つまりあれはドクトル本人が立っていたわけではなく、健人自身が脳内で作り上げた幻影だったのだろう。
そこで最初のやり取りを思い出し、健人は絶望の声を絞り出した。
「じゃ、じゃあ、元の世界に帰れるってのは……」
「ククルゥさんの嘘ですね」
「そ、そっか……」
そんな都合のいいことがあるわけないと理解しつつも、目の前にぶら下げられた希望を失った反動は大きかった。
膝をついた健人は、未だ縛られている妖精を恨みがましげな目つきで睨みつける。
体長は人間の頭よりもやや大きい程度。起伏の緩やかな体つきは男性とも女性とも区別がつかず、全身がぼんやりとエメラルド色に輝いている。また顔つき自体は人間とさほど変わらないものの、虹彩だけは比較的大きいようだった。
健人の視線に気づいているのかいないのか、妖精のククルゥは蝶のような翅を羽ばたかせ、不貞腐れたようにそっぽを向いていた。
「妖精の幻覚ってのはわかったけど、なんでそんなことしたんだ?」
「妖精は例外なく悪戯が好きな種族ですからね。新参者のケントさんが悪戯の標的になるのは当然です」
「と、当然なのか……」
この世界の特殊な常識を突き付けられ、健人はガクッと肩を落とした。
ただ一つだけ腑に落ちない点がある。
「ドクトルさんは、どこら辺から気づいてたんだ? そりゃ助けてくれたことには感謝してるんだけど、できればもっと早く来てほしかったなぁって……」
「私は最初から承知していましたよ。具体的に言えば、ペペナ草を採取してる時ですね。ケントさん、ククルゥさんから名前を聞かれていたでしょう?」
「あっ……」
思い出した。彼女が言うように、確か誰かに声をかけられたはずだ。あれが幻聴ではなく、まさか妖精が側にいただなんて……。
「相手の名前を知っていると、幻覚をかけやすくなりますから」
「だからドクトルさんは本名を名乗らなかったのか」
「それもありますが、私のはまた別の理由があります」
その理由というのを口にしたくないのか、ドクトルは露骨に視線を逸らした。
まあ、幻覚対策として偽名を使うのは全然いい。けど昼間の時点でこうなることがわかっていたのなら、どうして教えてくれなかったのか。
口を尖らせた健人は、責めるように呟いた。
「先に言ってくれたらよかったのに」
「すみません。ケントさんが警戒してしまうと、事が上手く運ばないと思いましたので」
「警戒? 事?」
不穏な単語が飛び出し、健人は首を捻った。
ずっと不機嫌なままのククルゥを見上げながら、ドクトルが説明を始める。
「満月の夜は『宝氣』を多量に含んだ特殊なペペナ草が採れるのですが、残念ながら人間の目だけで探し当てるのは困難を極めます。そこで協力してもらうのが妖精なのです。妖精は『宝氣』の気配に非常に敏感でして、特殊なペペナ草も簡単に見つけることができるのですが……問題なのは、素早くて捕まえにくいこと。そして頭が悪いはずなのに、協力した対価を求めてくることです」
「頭が悪いって言うなー! アホー!」
声を張り上げるククルゥを黙らせるように、ドクトルが勢いよく紐を振り回した。悪口を言われたことに対する正当な抗議だったはずなのに……ちょっと可哀想だなと健人は思った。
「妖精を捕まえるタイミングは、悪戯に集中している時が一番ですからね。対価なしで仕事を依頼するための貸しにもなりますし」
「貸し? まさか……」
そこまで聞いて、健人はハッと気づいた。
ドクトルは健人が悪戯されるのを知りながらあえて見逃し、妖精を捕まえるために利用した。だからこそ完全に溺れるまで見守っていたのだろう。悪戯に成功して、喜び勇んでいる瞬間を狙うために。
そしてドクトルの立場からすると、自分の客人を罠に嵌めた事実だけが残る。貸しと称しても何らおかしくはなかった。
「っていうか昨日の夜、森にいたのもそのためなのか?」
「そうですね。どうやってククルゥさんを捕えようか悩んでいたところ、偶然にもケントさんを発見しましたので、利用させていただきました」
最初からドクトルの手の平で踊らされていたことを知り、健人は脱力した。
とはいえ、それで死にかけていたところを助けられたのだから、怒る気にもなれない。むしろ妖精を捕まえるために利用されたことは恩返しの一環だと自分に言い聞かせ、健人は大きくため息をつくだけに留めたのだった。
「ちなみに泉の底から触手みたいなのが伸びてきて、引きずり込まれそうになったんだけど」
「それは、この泉に住むウンディーネさんの防衛機構ですね。ウンディーネさんはとても気難しい方でして、眠りを妨げられたくないから、侵入者を自動的に排除するような罠を張っているんです」
「なるほどな」
だから水を汲むのも、わざわざ遠い沢まで足を運んでいたわけか。
「……まさか二日連続で死にそうになるとは思わなかったよ」
「お疲れ様です」
全身で疲労を表現する健人に向け、ドクトルは労うように頭を下げた。
「もう! ドクトル! ペペナ草を探してほしいんなら早く行くぞ!」
「はいはい、ちょっと待っててくださいね」
ご立腹の様子で急き立てるククルゥを、ドクトルは軽くあしらった。
まさか、このままペペナ草の採取を始めるのか? と、疑問を投げかけようとした健人だったが……「へっくしゅ!」と、当然のように豪快なくしゃみをかましたのだった。
「ケントさんは休んでいた方がよさそうですね。一旦、家に戻りましょう。暖炉に火を点けますので、温まっててください」
「そうしてくれると助かる。このままだと風邪を引きそうだし」
夜風に撫でられて全身が凍えそうになった健人は、ドクトルと一緒に家へ向かう。
その途中、急に立ち止まった彼女が、健人の服を軽く引っ張った。
「あの……」
「?」
わざわざ歩を止めるほどの用事がまだあるのかと、健人は怪訝そうにドクトルの顔を見下ろした。しかし視線が合うことはなかった。彼女は何故か恥ずかしそうに俯いたまま、口をもごもごさせていたからだ。
「……どうかした?」
「えっと、その……今回の件は本当にごめんなさい。もちろん最初から助けるつもりで、見捨てるなんてことは考えもしませんでした。そこは勘違いしないでほしいかな、と……」
そう呟いて顔を上げたドクトルの瞳には、謝罪と困惑の意が内包されているように見えた。
こんな森の中に一人で暮らしているのだ。おそらく人付き合いも必要最低限しか行ってこなかったのだろう。感情を発露させる機会の少ない彼女は、今の言葉がしっかりと健人に伝わっているのか不安である、といった様子だった。
小動物のように愛くるしい瞳に見つめられ、健人はふっと頬を緩めた。
「大丈夫。ちゃんとわかってるよ」
初めて見せてくれた素直な感情は、利用されたことに対する対価としては十分なものだと、健人は感じたのだった。
