01Short Story試し読み
【特典SS】█藤██平のとある一日
某日。█藤██平は呼び出された施設の一角で、死人のような顔をしてベッドに横たわる青年を見下ろしていた。琴浪誠也、十八歳。父親が星母教という宗教団体の信者であり、儀式のために身内を捧げようとして失敗した、という話を聞いている。琴浪は純然たる被害者だったが、施設内においてはどうも加害者の如く扱われていた。致し方あるまい。儀式が成立しなかったがために、彼の生家には今や悪霊と化した『弟』が住み着いており、血縁者である琴浪の元には多少なりとも影響が表れている。誰だって、呪いの類と繋がりがある者とは関わりたくないだろう。
██平は身体を起こす気配もない琴浪を前に、自分はある程度の霊的現象を解決する能力がある人間であることと、琴浪の事情を聞いていること、現状を解決するために寄越されたことを説明した上で、彼と三十分ほど言葉を交わした。言葉と呼んでいいかは定かではなかった。結局、三十分の間で琴浪が意味のある言葉を発したのは、次の一言以外になかったからだ。
「弟が助かる方法はありませんか」
聞いてすぐ、██平は単なる感想として、十歳の自分と同じようなことを言っている、と思った。暗く淀んだ瞳を天井に向ける琴浪を前に、██平は特に何の感情もなく、十五年前の記憶を辿っていた。
今から十五年前。██平にとっては異界である此方側へと呼び出された█藤██平がまだ二十歳だった頃、十歳の神藤伊乃平は、この少年と同じような言葉を吐いた。
弟を助けてほしい。今の自分では解決の方法がないが、二十歳のお前ならば解決可能な筈だ、と。
二十歳の██平の都合は丸無視された形だ。実に子供らしい純粋で傲慢な考えである。二十歳の人間が十歳になることと、十歳の人間が二十歳になることの間には、埋めようもない苦労の差があることを、彼は何処まで理解していただろうか。
おかげさまで██平はせっかく入った第一志望の大学に碌に通うことはないまま退学になったし、まともな職に就くこともなければ戸籍すらほとんど合法とは言えない状態であり、行政手続にも苦労する始末だ。まあ、それらの苦労を含めて、自分ならばなんとかすると思っていたに違いない。
兄とは、弟を守るものである。少なくとも、██平はそのように思っているので、この世界の神藤光基は幸いにも一命を取り留め、今日も健やかに生きている。他に方法はいくらでもあったような気がするが、当時の彼に思いつくのがこれしかなかったのだから、仕方がないのだろう。もしも██平が同じ状況になったのなら、きっと同じことをした。よく分かる。なんたって自分自身なのだから。
そして、自分自身ではなくとも、似た境遇にいる者の心も理解は出来る。大事な家族が目も当てられない状態になったのならば、もちろん、どんな手を使ってでも、助けようとするだろう。
だが、この場合は話が別だ、というのが本心ではあった。
「助かる方法、とは言うが。君の弟さんは既に亡くなっているのではないかな」
この少年の想いに共感はあれど、引き受けるつもりはなかった。報酬を提示された上で付き合いのある院長に頼まれたので、話くらいは聞いてやるつもりで来ただけだ。
死んだ人間を助けたいだなんて、どう考えてもまともでない。求められている解決には程遠いだろう。
そもそも彼は相続を放棄したと聞いている。切った縁をわざわざ結ぶような真似をして、一体何の意味があるというのか。切った筈でありながら、尚も繋がりを保ったまま干渉してくるような相手ですらあるのに。
助かる方法を述べるならば、単に消し去ってしまうのが一番手っ取り早い。存在の消失が救済となる場合も、人生においては多々ある。ましてや、弟であった存在を残したばかりに他者を呪う様を見て、彼がこれ以上正気を保っていられるとも思えなかった。そもそもが、あまり、そうとも呼べる状態には見えない。
だが、彼の弟——琴浪█を消し去ったとしたら、琴浪誠也は生きる理由を完全に失うのだろう、とも理解していた。普遍的な幸福を壊された十八歳の青年が、最後に残った望みすら叶えられずに全てを奪われるのは、██平の感性としても忍びないものだった。
「琴浪█は、今もまだ君を観測している。これは君の状態に言及した人間がどういう理屈か天井に吊るされることからも明らかだ。悪霊の性質に、生前の人格が作用しているんだろう。君が生者として常に存在を知覚させれば、これ以上の変質を避けることは出来る」
██平が提示したのは、状況の解決でも改善でもなく、ただの停滞だった。もう既に起こってしまった最悪を、ただそこに押し留めるだけの案だ。
意思もないままに天井に向けられていた視線が、ほんの僅かに動いて、██平を捉える。
「放っておけばすぐにでも悪化するが、押し留めている間に別の方法が見つかる、ということは十分に有り得る。悪霊に寿命はないからな」
人間にはある、という点を、██平は明確な意思の元に省いた。要するに、この疲弊しきった青年が少しの間、前を向けて歩けるだけの方法があればいいのだ。求められているのはそういうものだった。
そうして、琴浪誠也は日記を書くことを決めた。
***
『ハムを貰ってくれませんか』
某日。██平は呼び出された喫茶店の一角で、立派な箱に包まれたハムを見下ろしていた。対面に座る二十七歳の琴浪誠也は、取り出した箱を開けると、一度〝安全なハム〟であることを確かめさせてから紙袋にしまいなおし、██平へと差し出した。紛れもなく、何の変哲もないハムだったが、問題はハム以外にあるのだからそんなことは何の安全の保証にもならないのだとは、どうやら対面に座る彼には理解できていないようだった。
「付き合いのある人間に貰ったんですが、ハムは駄目らしいので」
「駄目とは?」
「猫と同じ判定になるみたいで」
██平は質問を放棄した。この世には自分が理解している事柄については説明する責任を放棄するタイプの人間が存在しており、琴浪誠也は間違いなくその類だった。ちなみに、██平も同類である。
そもそも別に、ハムについて詳細を尋ねたくて訪れた訳ではない。連絡を受けた際にたまたま同県にいて予定も空いていたから、一度顔を見ておくか、と思っただけだ。
「少し顔色が良くなったな。仕事は落ち着いたのか?」
「いえ、全く」
琴浪からはほとんど生気が感じられない声が返ってきた。彼が最後に落ち着いた会社は最も適性があるものの、人間関係がよろしくない様子だった。この辺りは、気に入らない人間とはほとんど縁を切ってしまいがちな██平には理解できない感覚だったが、家の事情で就職にも苦労する身である琴浪にとっては、気質と関係なく、耐えなければならない環境というものがあるのだろう。
ただ、職場環境に改善がないにしては、以前に見た時より顔色はよくなっている。最後に顔を合わせたのは彼の実家だったと記憶しているが、何処から見ても立派に今にも死にそうな人間だったのが、一般的な健康不良程度には落ち着いていた。どうやら、食事はきちんと摂れているらしい。
「前よりは健康的な生活をしているみたいで良かったよ。君はあまり、食事に頓着しないからな」
「……………………まあ、はい」
世間話に対するものとしては随分と沈黙が長かったような気がしたが、██平はそれ以上の言及をするつもりはなかった。踏み込むような間柄でもなければ、強い興味もない。彼もいい大人なのだから、自分のことは自分で責任を取って生きていけるだろう。そうなる未来を願って提案したのだから、それだけで十分なのだ。
ちなみに、詳しく聞いたところで判明するのは『死んだ弟から生成された謎の怪異である生肉を調理して食べています』という、何処の倫理を使えば許容できるのか怪しい事情でしかなかったので、██平の判断は至極正しいものだった。